仏教用語解説

◆往生*おうじょう

        
    人間は、常に畏怖心の去らぬものであります。人生の迷路の中で絶望感を抱
   くときもさることながら、人間にとって何よりも大きな畏れは、死なねばなら
   ぬという厳粛な事実です。
    そのような状況を「困った」とか「死ぬ」という即物的な表現を避けて、い
   つしか「往生」という言葉を用いるようになったのは、恐らく浄土教が広まる
   につれて、仏の浄土に生まれるためには、死という関門を通らねばならぬとい
   う状況から、人々は、往生という美しい響きを持つ言葉でそれを表現しようと
   したとも考えられます。この世俗的な用例が『仮名草子』の上にも見られ、浄
   瑠璃や歌舞伎の世界にまで及び、現代の日常用語にも、いまもってその例を多
   く見ることができます。
    例えば、死に際を「往生ぎわ」と言い、いさぎよく罪に服さぬことを「往生
   ぎわが悪い」と称し、無理に押し付けられて止むなく承知することを「無理往
   生」と表現し、果ては身動きが取れぬ状態を「立往生」と語るなど、今も私た
   ちの周辺でこれらの言葉は生きています。
    しかし、本来のこの言葉は、現世を去って仏の浄土に往いて生まれることを
   意味しています。取り分け浄土真宗においては、往生浄土を抜いてその教えを
   語ることができない程に重要な意味を持っていることを思えば、私たちにとっ
   て、確かな理解を持つことは極めて大事なことです。
    『親鸞聖人御消息』のなかで、
       信心定まるとき往生定まるなり。来迎の儀則をまたず
                             (第1通735頁)
   と述べておられます。
    これは、阿弥陀如来の働きによって、信を得れば、仏に成るに間違いない身
   と定まるということです。この姿は、再び迷いの世界を流転することがないた
   めに「不退転」と言われ「即ち往生を得」と語られるのです。さらに、その命
   が尽きたとき、如来のめぐみによって、間違いなく真実の浄土に往生して仏と
   成らせていただき、尽きことのない命に恵まれると思えば、往生は人間究極の
   願いを満たすものというべきであります。
    従って、われらの往生は、あくまで「仏のかたより往生は治定」(『御文章』
   5帖目10通1197頁)といただくべきであって、『徒然草』のなかの「往
   生は一定と思えば一定、不定と思えば不定」(39段)と語られるような自己
   の確信の有無によって決まるべきものではないのです。また、「往生の素懐(
   そかい)」という言葉が示すように、念仏者にとっては、往生は生来の願いで
   あるとともに、めでたきもの、有り難きもの、と言うべきであります。そこに
   思いが至れば、
      さいちは        りんじゅうすんで         そうしきすんで          あとはあなたをまつばかり        なむあみだぶつに         りんじゅうはない
   という山陰・湯泉津の妙好人・浅原才市翁の法悦のうたが、まさに往生人の豊
   かな信の風光であるとみることが出来るのです。

             〔ことば「仏教語のこころ」藤澤量正 本願寺出版社〕