仏教用語解説

◆南無阿弥陀仏*なもあみだぶつ

        
    人は、自ら言葉を用いるだけでなく、いつも誰からかの言葉や呼び掛けの声
   を期待し、明るさと温かさに触れた人生を待望します。言葉のない人生、温か
   さに遇うことなき日暮しは、人をして孤独の思いを一層深めさせるものです。
    かつて、島崎藤村は、4冊の詩集を合体にした『藤村詩集』の序文のなかで、
       生命は力なり。        力は声なり。        声は言葉なり。        新しき言葉は、すなわち        新しき生涯なり。
   と述べて、新しき詩の出発を宣言しましたが、人間としての生命の誕生が声か
   ら始まり、その声によって人生が始められるということを思えば、私たちの生
   きている事実は、声であり、言葉であり、さらに明日を開くことのできる力を
   持つことであります。
    いま、南無阿弥陀仏の六字の名号は、阿弥陀如来が、無限の智慧と慈悲を供
   えて、真実の世界から「仏の願いに目覚めよ」とあらわれたもうた仏の喚び声
   であり、それは「究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ」(「重
   誓偈」)と誓いたもうた仏の大いなる名告りであります。
    思えば、仏はみ名であり、み名は仏そのものなのです。喚び声は力であり、
   真の力は仏の命を得てこそであります。しかも「わが名を称えよ」と呼びたも
   う仏の声は、同時に「汝よ」とこの私を呼びたもう大悲の顕現であって、われ
   らは、その喚び声に温められて阿無阿弥陀仏とみ名を称える身に育てられるの
   です。人間の悲しみに底なきが故に、仏の命は無量寿であり、われらが苦悩や
   罪業のなかで流転する故にこそ、仏の智慧は無辺際であります。
    この阿弥陀如来の大悲に抱かれ、この仏の大智に導かれて
      「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、        つねはおもひいだしまゐらすべし」(『歎異抄』第16章849頁)
   と知られたとき、念仏申さるる人生が開かれるのです。それも阿弥陀如来の大
   いなる働きによると知らされれば、われらは、南無阿弥陀仏によって南無阿弥
   陀仏と申さるる身になったのだと気づかされるのです。篤信の教育家であった
   甲斐和里子史が
      みほとけを        よぶわが声は       みほとけの        われをよびます         み声なりけり
   と詠われたのも、そのことを示しているのであり、さらに
      みほとけの        み名をとなふる         わが声は       わが声ながら        たふとかりけり
   と喜ばれたのをみても、南無阿弥陀仏とみ名を称うる身になることは、わが人
   生に確かな悦びと力を得ることであると知ることが出来ます。
    仏のみ名を如実に聞くことによって報謝の称名が生まれ、常に念仏申す人生
   を持ち得てこそ「無碍の一道」を歩むことができるのです。私たちは聴聞を重
   ねることによって
      身も南無阿弥陀仏、心も南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の主になる
      (『安心決定鈔』1390頁)(『蓮如上人御一代記聞書』1309頁)
   ことこそが、人と生まれ得た何よりの所詮であるということを思い知りたいも
   のであります。

             〔ことば「仏教語のこころ」藤澤量正 本願寺出版社〕