仏事いろいろ

2016年報恩講
◆如来大悲の恩徳は  釈 徹宗
                    〔相愛大学教授/大阪府如来寺住職〕
                                 (本願寺出版社 平成28年9月1日発行)

        
   ◎私のためにしてくださったこと
     『歎異抄』の「後序」に、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親
    鸞一人がためなりけり」(『註釈版聖典』853頁)という言葉が出てきます。有名
    ですので、ご存じの方も多いでしょう。この言葉を親鸞聖人はしばしば語っておられ
    たようです。「阿弥陀さまの願いは、まさに私のためにある」という発言、これは宗
    教の救済の本質を端的に表していると思います。
     「なぜ阿弥陀さまは存在するのか」
     「それはこの私を救うためなのだ」
     ここです。「この私」という当事者に立たない限り、宗教の教えも救いも成り立ち
    ません。その意味において、仏法は「他人ごと」じゃなく、常に「自分ごと」なので
    す。
     ラグビーの元・全日本選手である平尾剛さんに教えてもらったのですが、ラグビー
    ボールは楕円形をしているため、パスに配慮が必要だそうです。だから、「取ってく
    ださい」とおっしゃっていました。そして、そのようなパスを受けることが喜びであ
    り、思いのこもったパスを出すところにラグビーの醍醐味があるとのことでした。反
    対に、雑に出したパスは、キャッチしにくく、思わぬ怪我につながったりするそうで
    す。
     先人からのパスをキャッチして、次世代へと心のこもったパスを出していくのは、
    今を生きる者が果たすべき役割でしょう。そして先人からのパスは、いわば「私のた
    めに出されたもの」です。そのパスは私のためにこそあって、そのパスを受けるのは
    私である、ここが重要なのです。
   
   ◎私にいたりとどいた大悲
     このような「私のためになされた恵み」を、インドの仏教の言葉でクリタと言いま
    す。クリタは「恩」と訳されています。「恩」という字の上部「因」は、敷物の上に
    人が大の字になって、恵みや慈しみを受けている姿からできたそうです。また、字の
    構成を見ると「原因を心にとどめる」となっていますね。つまり恩とは、何がなされ
    たのか、今の状態の原因は何か、そういったことを心に深くとどめることを指すとも
    いえるでしょう。
     先人からのパスをきちんとキャッチすることを「知恩」(クリタジュニャ)と言い
    ます。日本仏教には「知恩報徳」や「知恩報謝」という用語があります。報徳とは、
    先人のパスに徳で報いていく意となります。徳とは「周囲に与える良い影響」といっ
    た意味になります。先人のパスをキャッチして(知恩)、次世代へと良いパスを出し
    ていく(報徳)、あるいは感謝のパス・喜びのパスを出していく(報謝)わけです。
     それにしても、恩・徳・報・謝などの字を見ると、我々はどうしても「恩徳讃」を
    思い浮かべますね。
     
       如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
       師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
     
     この親鸞聖人のご和讃にメロディーがついていて、「恩徳讃」として歌唱されてい
    ます。
     親鸞聖人は五百四十首余りのご和讃を創作されていますが、中でもこの一首は「身
    を粉にしても」「骨をくだきても」といった強烈な表現となっていて、強い印象を受
    けます。
     このご和讃は、親鸞聖人の兄弟子である聖覚法印が作成した表白文を下敷きにして
    いると言われています。法然聖人の六七日法要の際、その恩徳を讃嘆した表白です。
    聖覚法印の文章は、「つらつら教授の恩徳を思えば、実に弥陀悲願に等しき者か。骨
    を粉にしてこれを報ずべし。身をくだきてこれを謝すべし」となっています。当時は
    このような表現が、しばしば使われたのかも知れませんね。しかし、やはりこの一首
    が我々の心へと響く強さを持っていることは間違いありません。
     「如来大悲の恩徳は」とありますので、恩も徳も如来の大悲からめぐまれたもので
    あることが述べられています。大慈悲心によって如より来生された阿弥陀さま。その
    恩徳に対して、身を粉にしても報じていこうとする姿勢がうたわれているのです。
     「師主・知識」とは、私を導いてくださった先達のことです。親鸞聖人にとっては、
    釈尊・龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信和尚そして聖徳太
    子や法然聖人といった人たちを挙げることができるでしょう。これら先達のパスが私
    に届いたという事実。二千数百年に及ぶパスです。インド・中国・日本とパスはつな
    がっていきました。
     誰か一人がパスをやめていれば、そこまでです。何千年続いたパスでも、止まる時
    はあつという間なのです。しかし、誰もパスをやめることなく、次世代へとつながっ
    ていきました。そのパスがなんと私のところまで届いたのです。「感謝せずにはおら
    れない」、そんな思いが、親鸞聖人の心身の恩底から湧き上がってきたに違いありま
    せん。だからこそ、「骨をくだきても謝すべし」といった表現になるのです。
   
   ◎私のための教え
     親鸞聖人にとって、他力の教えは「すべての衆生のため」であるとともに、ある一
    面では「この私のため」なのでした。これはやはり宗教という領域における「教え」
    ならではの特性でしょう。
     宗教の「教え」は、「情報」とは異なります。情報をあつかうスキルは熟達してい
    きますが、教えに身をゆだねることは簡単ではありません。特に現代人はその傾向が
    強いと思います。      情報というのは新しいものが手に入れば、それまでのものは不要になります。役に
    立たないからです。ですから、情報は次から次へと消費されていきます。
     しかし、「教え」は、一度出遇ってしまうと、もはや出遇う前には戻れません。時
    には「こんなことなら知らない方が良かった」と感じることさえあります。なぜなら、
    「教え」は自分自身が問われるからです。
     昔から、「仏法は邪魔になるまで聞け」と言われています。仏法を聞けば聞くほど、
    自分自身のあり様が問われるため、以前は気にならなかったものが気になってきます。
    ついには「仏教の教えに出遇わなければ、こんなことに悩まなかったのではないか」
    と邪魔になるのですね。それだけ仏法は我々の存在そのものに肉迫してくるのです。
     消費されてしまうような情報では、私たちは救われません。私自身のあり方が問わ
    れ、存在が揺さぶられるような教えに出遇う。そして、「ああ、この教えは私のため
    にこそあった」となれば、もう他の教えは必要なくなります。そこに「宗教の救い」
    は成立します。
     報恩講は、そのことをあらためてお味わいさせていただく機縁でもあります。