仏事いろいろ

2016年お彼岸《秋》
◆この道はいつか行く道  清基秀紀
                    〔京都女子大学講師/京都府遍照寺住職〕
                                 (本願寺出版社 平成28年9月1日発行)

        
   ◎なつかしい道
    なつかしいという感情は、他の動物にはない人間特有のものだと言われています。子ども
   の頃によく遊んだおもちゃを見つけた時、そこから記憶の糸がつながり、次からつぎへと思
   い出すことは、どれもなつかしい思い出です。しばし温かい気持ちになり、何とも言えない
   安らぎの感情にひたることもあります。青春の頃によく聞いた歌がラジオから流れてくると、
   あの頃の思い出が鮮やかによみがえり、甘酸っぱい記憶となつかしさに、時間が止まったよ
   うに感じることもあります。
    「この道はいつか来た道」で始まる「この道」という童謡があります。「あかしやの花」
   が咲き「白い時計台」が見える道は、作詞者である北原白秋が旅した、北海道の思い出の道。
   「お母さまと馬車で行った」道は、白秋の母親の実家がある熊本から柳川までの、道の情景
   が歌われています。遠い昔に通った道はなつかしいものです。よく通る道は特に意識して見
   ることはありませんが、久しぶりに通ると、細かな情景をよく覚えているものです。
    人生という道を歩いている時も、なぜかなつかしく感じることがあります。以前にも、こ
   のような経験をした気がすることや、その情景が初めてなのに、このような経験をした気が
   することや、その情景が初めてなのに、なつかしく感じることがあります。私たちの心の中
   には、子どもの頃に経験し、すっかり忘れていた記憶が、原風景として残っているようです。
   印象深い経験は、いつまでも心の奥底に残ります。その風景が、私たちになつかしさの感情
   を呼び起こさせるのです。
   
   ◎お浄土への道
    大学で仏教学を教えていますと、学生が出席カードの裏に感想を書いていることがありま
   す。「小さい頃、おばあちゃんの家に行った時、よく一緒にお仏壇にお参りをしたことを、
   なつかしく思い出しました。意味もわからず一緒にとなえていたお念仏の意味が、やっとわ
   かりました」というような感想が出るのは、子どもの頃の経験が大切な思い出として残って
   いたからです。核家族化が進み、お仏壇のない家庭が増え、仏さまに手を合わせる習慣が少
   なくなったのはとても残念なことですが、少ない経験ではあっても、それが大切なことであ
   るという記憶は、いつまでも残っているようです。
    おじいちゃんやおばあちゃん、可愛がってくれた親戚のおじさんやおばさんや、近所の人。
   大切な人との別れも、私たちの心に深く刻まれます。悲しみはやがて時とともに別の思いへ
   と変わっていきます。手を合わせて、亡き人を偲ぶ時、なつかしい思い出と、忘れられない
   言葉、今も私たちの心に届く温かい心を感じることもあるでしょう。そして、その時に芽生
   える疑問、この世の人生を終えられた方々はいったいどこへ行かれたのかという思いこそ、
   生死という大切な問題を考えるきっかけとなります。私たちも、やがてこの人生を終える時
   がくる。その時、私たちはいったいどこへ行くのでしょうか。
    私たちは、この人生を終えると阿弥陀さまの本願によってお浄土に往生すると、親鸞聖人
   は教えてくださいました。お浄土は、はるか彼方の西方にあると、お経には説かれます。美
   しい夕日の沈む方角と、先に亡くなられた人々の行かれた方向とを重ね、夕日の沈む西方に
   お浄土があると説かれたのです。そのお浄土の方向がよくわかるのが、夕日が真西に沈むお
   彼岸の頃です。彼の岸、お浄土が最も身近に感じられるお彼岸は、先にお浄土に往生された
   大切な方々を偲ぶ時でもあり、そのお浄土を思う時でもあり、私たち自身がやがてこの世の
   生を終えた後に行くところとして、この私の向かう方向をあらためて確かめる時でもありま
   す。
    お浄土は、私たちがこの世の生を終えた後の、まったく別の世界ではありません。死んだ
   後は阿弥陀さまにおまかせをするけれども、この世は現世利益を求めて神仏に祈るというよ
   うに、誤解をする人もおられますが、お浄土への往生は、この世を生きる私たちの今と無関
   係ではありません。この世で往生をすることはありませんが、浄土往生へと続く道をしっか
   りと歩んでいるのかどうか、この人生を歩む方向やその道を確かめておかなければ、私たち
   は迷いの人生を送ることになります。
   
   ◎仏になる道
    お念仏の教えは、単に浄土に往生することが目的ではありません。お浄土で楽しく過ごす
   ためと考える人もいますが、そうではなく、私たちは仏になるためにお浄土に往生するので
   す。仏になるとは、さとるということです。煩悩具足の私たちは、この世でさとって仏にな
   ることはできませんが、阿弥陀さまの本願によってお浄土に往生し、仏になることができま
   す。その仏になる道をしっかりと歩むことが大切です。
    では、仏になる道とは何でしょうか。お浄土へ続く道を歩む私たちを導く阿弥陀さまの本
   願は、「あらゆる人々が、必ず浄土に生まれてさとりをひらくようにしたい。この私の願い
   がかなわなければ、私はさとりをひらいて仏にはなりません」と、自らのさとりよりも先に
   私たちの救いを願う慈悲の心です。その慈悲の心に導かれる私たちは、その心と無縁の生き
   方をすべきではないのです。阿弥陀さまの慈悲の光に照らされた生き方、それを自覚するこ
   とが大切です。
    「なつかしい」とは、過去の思い出に心が引かれる意味で使われます。しかしもともとは、
   心が引かれて親しくしたい、離れたくないという意味で使われました。浄土への道は過去の
   思い出の道ではありません。親しかった人、大切な人が先に歩んでいった道です。その後ろ
   姿に導かれて私も歩む道。初めての道なのに、なぜかなつかしく感じるのは、大切な思い出
   と結びつき、親しく感じるからです。
    まだ生まれたことのないお浄土は、なかなか恋しく思えません。しかし、お浄土へと続く
   道は、安心してこの人生を全うすることのできる、目的地の定まった道なのです。
    人の死を見送ると、いつかは同じ道を行く日が来ることを思います。しかしそれは、、人
   生の先、未来のことです。その浄土往生は未来のことであっても、お浄土へと続く道は、い
   つかは行く道ではなく、今、私が歩むべき道なのです。