仏事いろいろ

2016年お盆
◆蓮の花に想う  中川清昭
                     〔本願寺派布教使/福岡県願応寺住職〕
                                 (本願寺出版社 平成28年7月1日発行)

        
   ◎「菊」と「聞く」
       いくたびか お手間かかりし 菊の花
   
    私は現在64歳。趣味は、本堂の仏さまにお供えする花作りと、ガーデニングです。それ
   は、3年ほど前に、ある門徒さんからの「お寺は仏さまにお供えする花がたくさん必要。つ
   いては一緒に花を作りましょう」という提案がきっかけでした。
    私自身はあまり気乗りしませんでした。なぜならそれまで、花作りどころか、鍬を使った
   ことすらほとんどなかったのですから。また、お寺にはそのようなことができる畑もありま
   せん。しかし、畑を貸そうという人があり、しぶしぶ花作りがはじまりました。
    初めて挑戦したのは、グラジオラス作り。冬寒い時期に少し荒れた畑の草を取り、鍬で耕
   し、畝を作りました。説明書を読み、その通りに球根を植え、水をやります。ひと月ほどす
   ると、芽が出て、その芽がだんだん生長して、やがて花が咲きました。
    なんと説明書通りの結果で、私は大満足、おもしろくなりました。次々に新しい球根や苗
   を育てました。お内陣に私が作った花をお供えすることができたのです。
    そこから興味が広がり、本堂や庫裡の玄関前、境内を花いっぱいにし、いつどなたがお参
   りになっても常に花を愛でることができるお寺をめざそうとガーデニングへ発展した次第で
   す。
    しかし、花作りは、「手間」がかかります。毎日、天気予報と相談しながらの水やり、追
   肥、草取りなどなど。植物にはそれぞれの特性、つまり過湿気味に水を欲しがるもの、乾燥
   気味が好きなもの、肥料が大好きなもの、あまり肥料を好まないものなどがあり、それらを
   把握して「手間」をかけなければなりません。「手間」をかければかけるほど植物達は大き
   な花を咲かせたり、たくさんの花を咲かせたりします。そこで思い浮かんだのが加賀千代女
   作といわれる冒頭の句です。菊だけに限らず、ほとんどの植物は私の「手間」に応えてくれ
   るのです。
    もちろん、浄土真宗の念仏者としても知られる千代女は、単に菊作りに手間がかかること
   だけを詠んだのではありません。阿弥陀さまは「あなたをしあわせにしたい」と願い、それ
   を実現するために「五劫思惟」という「手間」をかけられました。にもかかわらず、阿弥陀
   さまの願いを聞こうともしない私を菊にたとえ、さらに、「菊」と「聞く、聴く」を重ね合
   わせて、「阿弥陀さまのお慈悲のこころをお聞かせいただく」私になることを教えてくれた
   のではないでしょうか。
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   ◎蓮の四つの徳
    お盆の花といえば蓮の花を連想される方が多いのではないでしょうか。蓮には仏教とは切
   っても切れない関係があります。多くのお寺の本堂に蓮の花が描かれていたり、香炉などの
   仏具も蓮の花の形をしたものがあります。また、宗派を超えて、多くの仏さまは、「蓮台」
   すなわち蓮の花の台座にご安置されています。私たち浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来さ
   まも同様です。
    調べてみますと、インドでは、蓮の花はお釈迦さまのおさとりの象徴とされ、尊敬する人
   に差し上げる花だそうです。
    また、中国では蓮の花には4つの徳があると言われています。この徳を浄土真宗の門徒の
   立場から考えてみます。
    まず、「朝開夕閉」(蓮の花は朝開いて、夕方には閉じる)。これは、私たちの信仰生活
   のけじめを表しているのではないでしょうか。朝お仏壇の扉を開け、花を供え、ろうそくに
   明かりをともし、お香を焚いて合掌、礼拝、そして勤行をします。今日もいのちをいただい
   たことに感謝し、精いっぱいの一日を送ることを仏さまに表明します。一日のつとめを終え
   たら、その一日を振り返りながらお参りをし、静かにお仏壇の扉を閉める。このような日々
   を送りたいものです。
    二番目に「一茎一花(果)」(蓮の花は、一つの茎が枝分かれしていくつもの花や実をつ
   けることはない。一つの茎に一つの花もしくは実をつける)。これは、私たちの信仰の純粋
   性を表します。私たちの周りにあるさまざまな宗教や俗信、迷信に惑わされず、私の人生は
   ただ一つでただ一度きりのもの、だからいただく教えもただ一つで十分と阿弥陀さまを仰い
   でいく姿を表すものでしょう。
    三番目に「華果同時」(蓮の花は、花が咲いたときには同時に実をつけている)これは、
   『歎異抄』に「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念
   仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふな
   り」(『註釈版聖典』831頁)とあるように、念仏申すという私たちの宗教行為と、摂取
   不捨という利益が同時であることを表しています。今めぐまれたこのいのちを精いっぱいに
   生きるということでしょう。
    四番目には「泥中君子」(「蓮は泥より出でて泥に染まらず」と言われるように、汚れた
   泥の中から茎を伸ばし、清らかな花を咲かす)。蓮の花は、真水のような清らかな水の中で
   は小さい花しか咲かせず、泥が濃いければ濃いほど大輪の花を咲かすそうです。このことを
   親鸞聖人は、『教行信証』に「<淤泥華>とは、『経』(維摩経)にのたまはく、<高原の
   陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず>と。これは凡夫、煩悩の泥のなか
   にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ」(『註釈版聖典』
   319頁)とお示しで、泥を私たちの煩悩にたとえられています。
   
   ◎煩悩の中に咲く花
    煩悩具足の凡夫であるが故に、老病死に苦しみます。なくならない様々な苦しみを抱えた
   私が、それを機縁に阿弥陀さまの教えに出遇い、人生を受け止めて行く力をいただく。その
   受けとめていく力そのものが「南無阿弥陀仏」だと親鸞聖人は教えてくださいます。
    現代は、物質的には豊かで便利な社会ですが、その中で生きづらさを抱えている人もたく
   さんいます。自死、暴力、薬害、自動やお年寄りに対する虐待、また差別に苦しむ人びとな
   ど、数えればきりがないほどの問題が山積みしています。それらを泥とたとえることもでき
   ると思います。その一つひとつにこころを寄せ、念仏に生きるものとして、何ができるかを
   考え、行動していくのも大切なことでしょう。
    親鸞聖人は、「正信偈」の中で、『一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 
   是人名分陀利華』(ほとけの誓い信ずればいとおろかなるものとても すぐれし人とほめた
   まい 白蓮華とぞたたえます)と、阿弥陀仏の誓いを依りどころとして生きる人を「白蓮華」
   と最大の賛辞をおくっていらっしゃいます。
    「お盆」、蓮の花を愛でながら、阿弥陀さまのおこころを想う季節です。