仏事いろいろ

2015年お彼岸《秋》
◆覚りの花  葛野洋明
                    〔龍谷大学特任教授/大阪府池田市託明寺衆徒〕
                                 (本願寺出版社 平成27年9月1日発行)

        
   ◎覚りの花から生まれる
      如来浄華の聖衆は
       正覚のはなより化生して
       衆生の願楽ことごとく
       すみやかにとく満足す(『高僧和讃』「天親讃」『註釈版聖典』580頁)
    お彼岸は、阿弥陀さまのお浄土と味わうとができます。
    阿弥陀さまの本願の救いを聞きよろこぶ私どもは、このいのち終わるとき、必ずお浄土に
   往き生まれ、この上ない覚りを開かせていただくのです。
    お浄土から阿弥陀さまは、「我にまかせよ、必ず救う」と、南無阿弥陀仏と喚び続け、い
   ま私に届いてくださっています。
    お浄土は往生していく世界であるだけでなく、いまこの迷いの私を覚らしめようとはたら
   きかけ、支えてくださっている、覚りの世界でもあるのです。
    親鸞聖人はご和讃に「正覚のはなより化生して」と、お浄土は往き生まれて仏と成ること
   を、覚りの花から生まれるのだとよろこばれました。
    「お浄土に往生し仏に成ることができる」と言われても、いま一つピンとこないというこ
   とはありませんでしょうか?
    致し方ないですよね。お互いさまに、いのちを終えた記憶もなく、お浄土に往ったことも、
   覚りの一分も開いていないのですから、ピンとこないのが私たちの本当のところではないで
   しょうか。
    そんな私に、お浄土に往生させてくださるということを、ご法縁で寄せていただいた風景
   を通して味わうことができました。
   
   ◎雪の景色と花の景色
    その年は近年まれにみる大雪でした。日頃は雪などほとんど積もらない街中も真っ白でし
   た。ご法縁で寄せていただいたご寺院の近くには大きな川がありました。その堤防の上の道
   を車で走りますと、目の前の風景は、どんよりとした雪雲の下、河原も堤防も雪で覆われて、
   水の流れるところだけ、雪が融けて黒々としています。まさにモノトーンの風景です。
    その年はたまたま2カ月後の4月にも、同じご寺院のご法縁を頂戴しました。また同じ堤
   防の上の道を車で走ります。今度はもう4月です。雪はとっくに融けています。
    ただ雪が融けていただけではありません。春を告げる菜の花が、向こう岸の堤防や河原の
   あたり一面に咲き誇っているのです。あの花のまぶしいほどの黄色と、萌えるような葉っぱ
   の緑色のツートーンカラーで、大パノラマがウワーっと目の前に広がっていたのです。「う
   あー、きれいなぁー。こんなに花が咲くなんて思いもしなかった」と思わず口に出るほどの
   圧倒的な風景でした。
    つい2カ月前に寄せていただいた時は、雪に覆われて寒々しい風景だった河原が、今度は
   あの黄色い花で覆われているのです。
    2月に寄せていただいた時、まさかこの雪に覆われた河原にこれほどの花が咲くなんて、
   微塵も想像できませんでした。なぜなら、堤防も河原も全てが雪に覆われていたのですから。
   でも、そこには花の種がちゃんとあったんですね。雪に覆われていたから、そこに種がある
   ことなどまったくわかりませんでしたが、雪が融け、水が温む春、その時がやってくると、
   種があるから見事に花が咲いたのです。
    この話、ただ雪の景色と花の景色に驚いたという話ではありません。お浄土に往生させて
   いただくことが決定しており、この上ない覚りを頂戴し、仏と成るという、私の話です。
   
   ◎必ず覚りの花を咲かせるいのち
    私どもは、煩悩に覆われて、いまの自分をどれほど振り返ってても、お浄土に往生し成仏
   できるようなことは何一つ見つかりません。この私が往生し成仏するなんて、微塵も想像で
   きません。
    しかし、阿弥陀さまは、そんな私をこそ往生させ成仏させようとして、その因を成就して
   くださったのです。いわば覚りの種を私に与えてくださったのです。その種は、煩悩に覆わ
   れている、いまの私のどこを探しても見当たりません。しかし、ちゃんと種があるところに
   は、時が至ると花を咲かせるのです。
    私の姿や心を見ると、年を重ねだんだん衰えていくとしか思えないこの人生です。まるで
   枯れて萎れていくような姿をさらけ出しています。朽ち果てていくように思う他はないのか
   もしれません。
    この世に生を受け、死んでいくいのちとしては、そのように思う他はありません。
    この世に生まれてきて、生きてきた。自分が何者かも知らず、どこに向かっているのかも
   知らずに生きてきた。仏法に出遇って初めて、自らが迷いの存在であることを知らされまし
   た。もともと迷いの私が、迷いの中から生まれてきて、迷いも知らずに迷いを深めることば
   かりしてきたのですから、もし仏法に出遇っていなければ、このまま迷い続けていくしかあ
   りませんでした。
    枯れて萎れて朽ち果てていくとしか思いようのないいのち。生きている意味もわからず、
   どこに行くかもわからずに、ただ迷いの中を、さらに苦悩を深め続けるという意味しかなく、
   いまの迷いから更に深い迷いへと向かうしかなかった私でした。そんな私に、阿弥陀さまは
   「必ず救う。我が国お浄土に往生させ、この上ない覚りの仏にさせる」という本願の救いを、
   お浄土から喚びかけ続けてくださっています。
    このお浄土からのおはたらきかけを聞き受けた、信心の念仏者である私どもは、いのち終
   わることが枯れて萎れて朽ち果てることではなく、覚りの花を咲かせるのだと思わせていた
   だくことができるのです。
    それはこのいのちに、覚りを開くという、想像もできなかった新しい意味を与え、迷いを
   深めるしかなかった私の方向を180度変えさせ、必ず覚りの花を咲かせるいのちへと変え
   てくださったのです。
    お浄土からの阿弥陀さまのお救いを聞きよろこぶ私どもは、いまお浄土に支えられ、覚り
   の花を咲かす尊いいのちを生きることができているのです。