仏事いろいろ

2015年お彼岸《春》
◆人生の落ち着くところ  田中信勝
                     (仏教婦人会総連盟講師/佐賀県最勝寺住職)
                                    (本願寺出版社 平成27年2月1日発行)

        
   ◎春
    春になると陽だまりの優しさが、幼かった頃の情景と温もりを私の中に蘇らせてくれます。
   そして、そこにはいつも私を愛し育んでくれた母の面影があり、冬の寒さに少しかじかんで
   いた私の心を温め包み込んでくれるのです。春は温もりの季節です。春の日差しはすべてを
   和らげ、その恩恵をこうむった多くのいのちたちは、いきいきと輝き、花は謳い、鳥は舞い、
   地を這う生き物たちも大地の温もりを満喫しているかのようです。
    そして、何よりも私たち仏教徒にとってとても大切な春彼岸を迎えさせていただくのです。
   
      ほろほろと 椿こぼるる 彼岸哉     (正岡子規)
   
    俳諧では「彼岸」は春の季語です。椿の花は決して煌びやかな花ではありませんが、晩秋
   の寒さの中に人々の心に何とも知れぬ安らぎを与えてくれます。そして自らは花びらに雪を
   受けて茶色く雪焼けを起こし、最後はただ「ほろほろ」と散っていくのです。
   
      受けとめる 大地のありて 椿落つ    (武内洞達)
   
    しかし、その椿には微塵も未練や後悔はなさそうです。いや、咲いている時でさえ、散っ
   ていかねばならない我が身を厭うこともないのでしょう。与えられたいのちを、精一杯咲き
   きるだけ。なぜなら、どのような最後であろうとも、咲き方散り方を問わずに水平なる大地
   は必ず受け止めてくださることを、椿の花は知っているからです。私たちもそんな生き方が
   できたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。
   
   ◎人生は苦なり
    さて、春の真っ只中にいるのに、世の中すべてのものが灰色の時ってありませんか。咲き
   誇る花の色も、空を飛ぶ鳥の声も、すべてが色あせ、何に出会っても感動も喜びも感じない
   のです。楽しそうな人々の笑い声さえも、雑音にしか聞こえません。それどころか、周りが
   賑やかであればあるほど孤独を感じてしまうのです。それはそれは深い闇の中です。
    昨年の秋、1人の女性が友達に連れられて、私がお預かりしているお寺を訪ねて来られま
   した。高速道路を使って片道2時間近くかけての来訪でしたので、よほど深い悩み(事情)
   を抱えてのことだろうと思いながらお迎えしました。しかし、ご本堂にお参りいただきゆっ
   くりと話を伺ってみたのですが、どうも話がわかりません。つまり悩みの中身がつかめない
   のです。健康で仕事もありお金に不自由もしていない。人間関係にも恵まれ、自分のことを
   心配してくれる友達もいる。何が不満なのでしょうか。それでも彼女は何かを求め、いろん
   な宗教を訪ね、たくさんの本を読んでいました。そして、しばらく経った後、彼女はポツリ
   とつぶやいたのです。
    「私、幸せじゃないんです。幸せになりたいんです」
    病に苦しんでいる人にとって、健康であることはどれだけ幸せなことでしょう。今日食べ
   ることに困っている人にとって、仕事がありお金があることは何と羨ましいことでしょうか。
   しかし、すべてを手にしている彼女は幸せを感じないというのです。人生が灰色だというの
   です。
    続けて彼女は私にこう問いかけました。「お釈迦さまは、私に幸せになる道を教えてくだ
   さったのでしょう。その道を聞かせてください」と。「いいえ違います」。私の即答に彼女
   は少し面食らった様子でした。
    お釈迦さまがお悟りを開かれてのち、最初のご説法を初転法輪といいます。その内容は「
   人生は苦なり」から始まります。「人として生きるということは苦しみである」と説かれた
   のです。私たちは、心のどこかで「自分はもっと幸せに生きていけるはずだ。それなのに周
   りのせいでちっとも幸せになれない」と、思い込んでいるのではないでしょうか。そうでは
   なく、お釈迦さまは「生きること=苦しみ」と教えてくださったのです。
    そして次に、「その苦の原因はあなたの煩悩にある」と諦かにされるのです。つまり苦し
   みの原因は私の外にあるのではなく、私自身の中にあるのだ。私の思い通りにしたいという
   心が、思い通りにならない苦しみの世界をつくっているのだ、とおっしゃるのです。それな
   ら後は簡単な話です。苦しみたくなければ、煩悩(自己中心的な心のはたらきから起こる欲
   や怒りや愚かさ)を滅してしまえばいいのです。
   
   ◎お浄土への道
    彼女は幸せ探しの旅を続けていました。それも地位や名誉や財産といった、いつかは崩れ
   去ってしまう当てにならない幸せではなく、私のいのちを根底から支える「本当の幸せ」で
   す。いや「幸せ」というより、「生きている安心」といった方がいいのかも知れません。
    お釈迦さまは私の本性を見抜いて、阿弥陀如来という仏さまがましますことをお告げくだ
   さいました。そして、阿弥陀さまは私のことを「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生(凡夫)」(『
   歎異抄』)と名付け、「あなたのことが心配でならぬ。あなたの人生を根底から支える、あ
   なたが生きるいのちの根拠として浄土を開いておこう」と、喚びかけられていたのです。そ
   の喚び声が「南無阿弥陀仏」というお念仏でした。
    煩悩熾盛とは、激しい煩悩をかかえて生きているということです。朝から晩まで煩悩に支
   配され、些細なことで腹を立て、欲に溺れ、愚痴を言いながらの生活です。しかし、この煩
   悩の身を悲しみ厭う時、この煩悩が転ぜられ成就されているお浄土の尊さがいよいよ身に染
   みてきます。
   
      尽十方無礙光の
       大悲大願の海水に
       煩悩の衆流帰しぬれば
       智慧のうしほに一味なり(『高僧和讃』『註釈版聖典』585頁)
   
    深く広い大海は、流れ込む水を一切選びません。そして一度受け入れたすべてのものを、
   自らと同じ一味の海水へと転じていくのです。私の激しく燃え盛る煩悩が、阿弥陀さまに誘
   われて阿弥陀さまの智慧の海(浄土)へと流れ帰した時、自己中心にしか生きて来られなか
   った人生に、少しだけ他人の悲しみや喜びが自らのこととして、感じられるようになります。
   いや、本当は他人の喜びのなかにこそ、自らの人生の喜びがあったことを気づかせていただ
   くのです。
    案外、この女性が求めている「幸せ」への鍵は彼女自身が抱えている「生きている空しさ」
   の中に在るのかも知れません。本来、彼岸とは到彼岸(彼岸に到る)のことで「お浄土を求
   める道」のことです。後日、彼女からメールが届きました。「まず、南無阿弥陀仏を称えて
   みます。また、メールしてもいいですか?」。もちろんOKです。