仏事いろいろ

2014年報恩講
◆恩を味わう  清岡隆文
                    〔中央仏教学院講師 本願寺派布教使〕
                                 (本願寺出版社 平成26年9月1日発行)

        
   ◎1年の区切りとして
     「ホンコサン」幼少のころより耳になじんだなつかしい響きがあります。わたしが住む
    地方では、秋の収穫が一段落した11月からが各寺の、そして門徒の家庭の報恩講のシー
    ズンです。わたしが住む地域はかつて六カ村からなり、寺院は真宗ばかりで、大谷派が1、
    本願寺派が6の合計7カ寺です。とにかくご本山、西本願寺への交通の便もよく、そのた
    めご本山の御正忌報恩講(1月9日〜16日)への参拝を考慮して、年末に「おとりこし」
    報恩講としてつとめています。わたしの寺は以前、元旦会をしていませんでしたので、一
    年は報恩講参りで始まり、報恩講で暮れていくと言えました。子ども心に、報恩講には特
    別な思いが定着していくことになりました。
     報恩講は浄土真宗をお開きくださったと仰ぐ親鸞聖人のご恩をしのび、そのご苦労を通
    して、阿弥陀如来のお救いをあらためて心に深く味わう大切な仏縁となる法要です。
     聖人が晩年に著された数多い和讃の最初に記されている二首を冠頭和讃と呼び、和讃全
    体がまとめられている、と言われます。その第一首目が、
       弥陀の名号となへつつ
        信心まことにうるひとは
        憶念の心つねにして
        仏恩報ずるおもひあり
    です。この和讃の意味は、名号すなわち南無阿弥陀仏を称えつつ、真実信心を得ている人
    は、阿弥陀如来の本願をいつもいただき、仏恩報謝のおもいをもって、おのずから念仏が
    こぼれでる、といただくことができます。この和讃の最後の「仏恩報ずるおもひあり」が
    そのまま報恩講をおつとめする心と受けとめています。
   
   ◎父母の恩を通して
     わたしは最近「恩」について考えることが増えています。まずこの文字について小学生
    が学ぶ漢字の一覧を見ますと、「恩」は5年生で習うことになっています。そしてうっか
    りすると間違えそうな「思」は、2年生の教科書に出るようです。最初は易しい漢字から、
    そして日常的によく使う漢字から、ということになるのでしょう。書くうえであまり変わ
    らない「思」と「恩」にひらきが出るのは、「恩」があまり日ごろ使用しないからではな
    いかと考え込んでしまいました。このことは今の世相と無関係ではないと思われます。
     この「恩」については、各種の仏典に「四恩」が示されています。なにをもって四恩と
    するかについては仏典によって異同がありますが、どれにも共通するのが父母の恩です。
    親鸞聖人は九歳で得度され、僧侶としての厳しい生活がはじまります。その出家の動機に、
    平安時代末期の政権争い、社会不安、そして家庭においては両親との離別があって、幼少
    期にすでに人生無常を感じ仏法を求める心がめばえておられたと思えます。とくに父を想
    い、母を慕う心が求道の人生のなかで肉親の情を超えて高められたところに、
       釈迦・弥陀は慈悲の父母
        種々に善功方便し
        われらが無上の信心を
        発起さしめたまひけり(「高僧和讃」『注釈版聖典』591頁)
    の歌の制作があったといただきたいのです。父の厳しさを釈尊のうえに、母の優しさを阿
    弥陀如来として仰いでおられ、この二尊がわたしたちの能力や性質に応じてたくみにみち
    びき、信心を得させてくださるのです。
     わたしは周囲の方々との対話を通して、仏前に足を運び手を合わせお念仏するようにな
    った機縁が、父や母との死別によるものであるという人のことを数多く耳にしてきました。
    ただそれが悲しみや寂しさの感情に終始するにとどまらず、父母の恩が仏恩に気づかせて
    いただくご縁となっていくことが願われています。そのためには「仏法は聴聞にきはまれ
    り」と言われるように、お念仏として口にする「南無阿弥陀仏」は私に向かっての「まか
    せよ、すくう」とのおはたらきであることを聞かせていただくのです。
     わたしがこの世においてあてにしているものが、一つひとつ消えていくなかにあって、
    むなしさばかりが広がっていく人生において、阿弥陀如来の本願こそがわたしの確かな依
    りどころなのです。そのおはたらきを疑いなく受け取るままに信心をめぐまれ、お念仏を
    することが「仏恩報ずるおもひ」となるのです。
   
   ◎味わう場所
     各地の報恩講にお参りして、数々の伝統に裏付けられた取り組みを見聞きさせていただ
    いています。仏教婦人会総連盟の機関紙『めぐみ』にも長く紹介されてきたお斎について、
    報恩講においても用意される寺院があります。ここでその時のお斎について脳裏に鮮明な
    ものをいくつか挙げてみます。その一つは滋賀県彦根市の郊外の寺院です。「八杯ドウフ」
    といって、いま市販しているトウフの3倍ぐらいの大きな木綿ドウフを大釜でたくさん煮
    込んで、お椀にはみでるほど盛りつけて、文字通り8杯もお代わりができるという品です。
     また岐阜県郡上市の1地域の寺院においては、報恩講のお斎のご飯を「たかたかマンマ」
    と呼んで今に受け継がれています。1人分のご飯が1椀のどんぶりに2合5勺、高々と盛
    りあげてります。いまごろは半分も食べる人はない、とのことで、食べきれない分はみん
    な持って帰るようです。学校帰りの子どもたちもカバンを持ったままお寺に寄って、お参
    りをしてお斎の席についています。もちろんその場には家族が顔をそろえる風景が見られ
    て、自然に微笑みがこぼれてきます。
     この二つの場面に共通するのは、親鸞聖人のお仏事において地域の人々が集まって報恩
    の思いをもって、分け隔てなく、ともに食べることによって満腹できることです。
     食糧事情がひっ迫する時代に先鞭をつけられた遥かな方々のご苦労に思いを馳せながら、
    飽食に慣れ、食べることに感動することすらなくなってきているわが身を振り返り、強い
    衝撃と鮮烈な印象を受けることになりました。そこには、お寺にいけば、み法と食事の両
    方で満足できるということが寺院への大きな吸引力になっていたのでしょう。
     善導大師の言葉に「仏法の味はひを愛楽し」(「往生礼讃」『注釈版聖典(七祖篇)』
    686頁)とありますが、仏法と食事の味わいを関連づけておられます。
     早いテンポで移り変わっていく時代にあって、伝統的な法要を継続してつとめることの
    意義とあわせて、今こそ吸引力のある寺院の取り組みが求められているのです。