仏事いろいろ

2014年お盆
◆いのち ありがとう  三浦明利
                     〔奈良県光明寺住職 シンガーソングライター エッセイスト〕
                                 (本願寺出版社 平成26年7月1日発行)

        
   ◎生まれて来てくれて、ありがとう
     昨年、私は住職になってから初めてお盆参りに行くことができませんでした。なぜなら、
    私は初の出産を間近に控えていたからです。医学が発達したとはいえ、出産は命がけのこ
    とだと思い、遺言書をしたため、出産の日をまちました。お釈迦さまのお母さんである摩
    耶夫人は、お釈迦さまをお産みになってから七日目に亡くなられています。私は、出産時
    には何があるかわからないけれど、もし、無事に赤ちゃんが生まれてきてくれたら、どの
    ような病や障害があろうと、かけがえのない大切な赤ちゃんを精一杯育てていきたいと、
    心待ちにしていました。
     名前は、男女どちらでも大丈夫なように「光(ひかり)」ちゃんと名づけ、お腹の中にい
    る時から名を呼んではうれしい気持ちになっていました。
     8月末、遂に光ちゃんの誕生です。初めてわが子を抱いた瞬間、「生まれて来てくれて、
    ありがとう・・・」と、感動でいっぱいになり、涙がこぼれました。阿弥陀さまからお預
    かりした子だと思って精いっぱい育てていきたいと思います。そして、なかったかもしれ
    ないこれからの私のいのちを精いっぱい生き抜きたいと思います。
   
   ◎思い通りにならない人生
     赤ちゃんは、万能感をもって生まれて来るそうです。万能感とは、心理学の言葉で、「
    何もかも自分の思い通りになると信じること」です。また、生後半年ほどは、自他の境界
    がなく、赤ちゃんは父や母のことを自分の一部だと思い込んでいるといいます。ですから、
    抱っこするのも、おっぱいをあげるのも客観的に見れば、親がお世話をしているのにもか
    かわらず、赤ちゃんは自分の意思で自分の一部を動かしているのだと思い込んでいるそう
    です。つまり、自分の意思であらゆるものをコントロールしているという、錯覚の世界に
    生きているわけです。
     ところが、人は成長するに従って、この世は自分の思い通りにならないと知っていきま
    す。また、思い通りにならないことを知る中で苦悩が生まれてゆくのです。
     お釈迦さまが「四苦八苦」とお示しくださる人間の苦悩は「この世は、自分の思い通り
    にならない」というところに出発点があったのだとうなずく私です。
     苦悩する私を、そのまま抱きとってくださるのが阿弥陀さまです。だからこそ、この世
    に生を受けたわが娘にも、念仏に出あってほしいと願うのです。
     私の母は、光ちゃんが誕生して初めて抱っこをした時、「光ちゃん、あなたは、南無阿
    弥陀仏にあうために生まれてきたのよ」と、その小さないのちにそっと語りかけていまし
    た。
     それからというもの、私の母は「なんまんだぶ」とお念仏で光ちゃんをあやすのです。
    光ちゃんは、まじまじとその顔を覗き込んで、「あんぶー、ぶー」と、なにやら真似をし
    ようとしている様子。その愛らしさに思わず微笑みがこぼれます。
     礼賛文に「人身(にんじん)受けがたし、今すでに受(う)く。仏法聞きがたし、今すでに
    聞く」(『日常勤行聖典』2頁)とあり、人間として生まれ、遇い難い仏法を聞かせてい
    ただくよろこびが表されています。光ちゃんの生まれるずっと前、久遠(くおん)の昔から
    阿弥陀さまは、念仏に出遇わせようとはたらき徹(とお)しでいてくださいます。光ちゃん
    は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)という長い時間をかけても遇うことが難しいお念仏に、
    遂に出あういのちをいただいたのです。この人生を、阿弥陀さまそのまま抱きとり、この
    世に生まれた意味を与えてくださるのです。
   
   ◎目連尊者の母と私
     母という新たな名をいただいて、はじめて『盂蘭盆(うらぼん)経(ぎょう)』の目連尊者
    のお話が身近に感じられるようになりました。わが子を育てるために餓鬼道に落ちた目連
    尊者の母が救われてゆくのが『盂蘭盆経』のお話です。
     母親になってみると、私の中にこんな感情があったのかと自分でも驚くほどわが子が可
    愛く、何事もわが子のために行動するというのが正義のように思ってしまいます。しかし、
    仏教ではあくまで愛は煩悩であり、執着であると示されています。なぜなら、その愛情が
    わが子だけに傾けられているからです。
     さて「子煩悩」とは、子を可愛がることをいいますが、もともとは子どもを可愛がる中
    で生まれてくる苦悩をいいます。親鸞聖人が「煩(ぼん)は身をわづらはす、脳はこころを
    なやます」(『注釈版聖典』708頁)とおっしゃるように、子を育てるということは、
    可愛さゆえに悩みが多くなるということなのです。
     一方、子である目連尊者は、母を供養して助けようとするのですが、うまくいきません。
    なぜうまくいかないのかというと、目連尊者もわが母にだけ愛情を傾け助けようとしてい
    たからなのです。
     『歎異抄』第5条に、
    
        親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
        そのゆゑは、一切の有情はみなも世々生々の父母・兄弟なり
                              (『注釈版聖典』834頁)
    と示されているように、親鸞聖人は、父母・兄弟の供養のために念仏を申したことは一度
    もないとおっしゃっています。なぜなら、生きとし生ける者すべてが、何度となく生まれ
    変わる間の父母・兄弟であるからだとお示しくださるのです。広大な生命観を感じるお言
    葉です。
     一見すれば、目連尊者のお話はよき家族愛に他なりません。しかし、仏教のみ教えは、
    世間的価値観の正義や美徳に留まる私たちに問いを投げかけます。そして、仏教は私たち
    に新たな価値観を提供し、考えを解体させ、新たな行動理念を構築してゆく道を照らしだ
    してくれます。これが、仏教のはたらきの一つだと私は受け止めています。
     さて、お釈迦さまは相談に来た目連尊者に、雨季が明けたら僧に喜捨(きしゃ)すること
    を勧められました。僧というのはインドの言葉でサンガといい、仲間を表す言葉です。肉
    親のみならず、仲間、そして生きとし生けるものすべてが同じように大切ないのちだと味
    わわれます。肉親へ愛情を転じ、他のいのちにも目を向けてゆくことで、目連尊者もその
    母も救われていったのです。
     さて、今年もお盆の季節です。生きとし生ける者は、みな久遠の阿弥陀さまから願われ
    たいのちです。自分のことばかりの私ですが、お盆をご縁に、阿弥陀さまに手を合わすと
    き、あらゆるいのちに感謝の念を深めたいと思います。