仏事いろいろ

2014年お彼岸《春》
◆仏さまの喚び声   西本照真
                     (武蔵野大学教授 庄原市金秀寺衆徒)
                                    (本願寺出版社 平成26年2月1日発行)

        
   ◎涙の卒園式
    春のお彼岸の時節は、卒業シーズンにも重なります。毎年、この頃になると思い出される
   のは、ずいぶん前に経験した特別な卒園式のことです。
    午前中に80数名の園児たちが、元気に卒園していきました。たくさんのご家族や来賓、
   先生方に見送られて、実に華やかで賑々しい卒園式でした。しかし、1名の卒園児(太郎君、
   仮名)だけは病気で、卒園式に参加できませんでした。何日か前に熱も下がり元気でピンピ
   ンしており、後はお医者さまの許可さえもらえればよい状態でしたのに・・・。3年間仲良
   く遊んだ仲間たちと、どんなに一緒に卒園したかったことでしょう。
    その日の午後、誰もいなくなった幼稚園に、太郎君とご家族だけが集まりました。「本日
   2回目」の卒園式が開式しました。午前中と同じ式次第で卒園証書を授与し、続く式辞で次
   のように話しました。
    「太郎君、ご卒園おめでとう。3年間、元気に遊んだ幼稚園を卒園する日がきました。今
   日の午前中にお友達は卒園式を終えました。午後からの卒園式は太郎君ひとりが卒園生です。
   ひとりで巣立っていかねばならないのだから、さみしい気持ちもあるでしょう。みんなと一
   緒に卒園したかったなぁ、という残念な思いもあるでしょう。でも、園長先生はその卒園式
   は最高の卒園式だと思います。
    なぜかというと、3年間、幼稚園で太郎君のことをいつもやさしく見守ってくださってい
   た仏さまの前で、太郎君が元気に卒園式を迎えられたからです。また、3年間、元気いっぱ
   い遊んで大きくなるようにといつもこころに願い、雨の日も風の日も送り迎えや身の回りの
   お世話をしてくださっていたお父さんやお母さん、そして太郎君のことがかわいくて仕方が
   ないおじいちゃんやおばあちゃん、家族みんなが太郎君の卒園をこころから喜び、お祝いし
   てくださっているからです。先生方も、こうして太郎君が元気に卒園していく姿を、とって
   も喜んでくださっていますよ。
    4月には小学校に入学して、ピカピカの1年生、新しい生活が始まります。楽しいことも
   いっぱいあるでしょう。さみしくてしょうがないときや、悲しくて泣きたいときもあると思
   います。でもどんなときでも、仏さま、お父さん、お母さん、友だちや先生など、たくさん
   の方がたが、決してあなたはひとりじゃないよと温かく見守り、励ましてくださっているこ
   とを、どうか忘れないでください」
    厳かな雰囲気のなかで、太郎君も泣いていましたが、真っ先に涙されていたのは親御さん
   でした。幼稚園の仏さま、太郎君、ご家族、先生方、みんな涙、涙の卒園式でした。
    親の涙は仏さまの涙に通じるものがあります。苦悩に満ちた人生、誰しも涙することがあ
   るでしょう。私たち凡夫の涙を見越して悲泣され、「うれしいときも悲しいときも、どんな
   ことがあろうとも、必ず摂め取って捨てはしないぞ。ともに生まれてゆく世界があるぞ、ま
   かせよ」という喚び声となって、「南無阿弥陀仏」の名告りをあげてくださった阿弥陀さま
   のご恩をかみしめたいものです。
   
   ◎我が子は善知識なり
    もうひとつ思い出されるのは1928(昭和3)年、武蔵野大学の学祖で仏教学者の高楠
   順次郎先生(1866〜1945)が、武蔵野女子学園高等女学校の第1回卒業式で、17
   名の卒業生を前に行われた式辞です。「一同を我が子の如く愛することも今も後も同じこと
   である。(中略)母姉に代わって、母性愛の神聖なることを自然的にも宗教的にも完全に徹
   底せしめんことを日夜に考慮しているのである」という慈愛にあふれた式辞でしたが、その
   言葉の裏には悲しい経験が秘められていたと聞いています。
    8人の子宝に恵まれた先生でしたが、ひとり逝きふたり逝きと次々に大切なお子さまを亡
   くされ、この式辞がなされた年までに7人のお子たちを送り、たった一人だけが残されてい
   たということです。次男の八十男さんを1歳半で亡くされたとき、「無常迅速の世相を知れ
   と、身を以って、父母に教えた愛子は父母の師である、善知識である」「八十男は我が子で
   はなかった。父母に無常を教えた菩薩である。仏である。少なくとも我に対しては真実の善
   知識であると考えた」(「亡き児八十男の追懐」より)とおっしゃっています。先生は、お
   浄土に往った我が子たちを真の善知識として仰がれ、そこに阿弥陀さまの願いとはたらきを
   感じながら、若き世代の教育に心血を注がれたのだと思います。
   
   ◎一子地の願い
    仏さまが生きとし生けるものへ無限の慈しみを注がれる親心のことを「一子地」と呼ぶこ
   とがあります。『涅槃経』というお経のなかには、「大慈大悲は名づけて仏性とす。(中略)
   大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性すなはちこれ如来なり。仏性は一子地と名づく」
                        (『注釈版聖典』236〜237頁)
   と説かれています。
    親鸞聖人もこの一子地について『浄土和讃』に、
   
   平等心をうるときを
    一子地となづけたり
    一子地は仏性なり
    安養にいたりてさとるべし (『注釈版聖典』573頁)
   
   とお示しくださり、さらに「三界の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふ
   なり」(『注釈版聖典』573頁)と説明されています。
    限りなき智慧と慈悲のはたらきに満ちた阿弥陀さまが、この私を一人子と心にかけ、体を
   まるごと挙げて「南無阿弥陀仏」の喚び声として届いてくださっているのです。その喚び声
   は時々の私の心を見通して、届いてくださいます。私が心から喜ぶときには「よかった、よ
   かった」と、私がどうしようもなく悲しいときには「悲しかろう、悲しかろう、泣きなさい」
   と、そして私が深い迷いの闇に沈み煩悩の火に焼かれそうになっているときには、「危ない、
   目覚めよ。このままでは焼け死んでしまうぞ」と。
    いつでも、どこでも、この私に向かってまっしぐらにはたらいてくださっている阿弥陀さ
   まの喚び声を、親鸞聖人は次のようにご述懐されています。
   
      弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば
      それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のか
      たじけなさよ           (『歎異抄』後序、『注釈版聖典』853頁)    
    卒業式に重なるお彼岸のこの時期、少しづつ暖かくなるにつれ、たくさんの卒業していっ
   た園児や学生たちの顔と声を思い出します。またお墓参りをすると、先立ちし方がたのこと
   が懐かしく偲ばれてきます。浄土に生まれて仏さまとなられ、ふたたび迷いの世界に還って
   一子地の願いとして届いてくださっていることを喜ばせていただき、お彼岸を仏法に遇う機
   縁といたしたいものです。