仏事いろいろ

2013年報恩講
◆豊かさとこころ   普賢保之
            (浄土真宗本願寺派司教、京都女子大学教授、滋賀県行願寺住職)
                                          (本願寺出版社 2013年9月1日発行)

        
  ◎報恩講の思い出
    私にとって報恩講といえば「おとりこし」という言い方がしっくりきます。私は
   大分県宇佐市(旧宇佐郡)の出身です。近くには四日市別院がっあって、当時も毎
   年12月の中旬におとりこしが勤まっていました。地域をあげてのイベントで、そ
   れを子どもの頃とても楽しみにしていました。高校の体育館では小中学生が描いた
   絵や習字の展覧会が催され、優秀な作品には作品の右上に金賞、銀賞、銅賞のはり
   紙が貼られてありました。それをどきどきしながら見に行ったものです。また門前
   町にはたくさんの露店が並び、金魚すくいやおもちゃの鉄砲で景品を当てるゲーム、
   錦菓子、お面等も売られていました。少ないお小遣いを手に握りしめて、いそいそ
   と出かけたものです。戦前にはサーカス団もやってきたと聞いています。おとりこ
   しは、地域をあげての一大イベントだったのです。
    浄土真宗では報恩講を中心に多くの法要が営まれていますが、それらはすべて法
   要をご縁として、私たちが念仏の教えに遇わせていただくためのものです。私たち
   の日常は時間にせき立てられ、慌ただしく毎日を送っています。そのためなかなか
   自分と向き合う時間を持てません。眼は絶えず、自分の外にばかり向いています。
   社会の動きに取り残されまいとがむしゃらに働き続け、その結果、今日のような物
   質的豊かさを手に入れることができたのでしょう。しかし一方で物質的豊かさと引
   き換えに、こころは益々荒んでいっているようにもみえます。
   
  ◎己を知り、進むべき道を見つける
    仏教では、人生は苦であると説いています。その苦を乗り越えていく道を示して
   いるのが念仏の教えです。最近、「生きにくい現代」といった内容の本を見かける
   ことがあります。こうした内容の本が現代人の耳目を集めているのだとすれば、そ
   こに現代人の傲慢さを見る思いがします。
    現代には、過去と違った特有の生きにくさがあるかもしれません。しかし、どの
   時代にもそれぞれ特有の生きにくさがあったはずです。そうであるにもかかわらず、
   現代が特に生きにくい時代と喧伝するのは、現代人の身勝手さをあらわしているよ
   うに思われてなりません。こうした背景には、自己と向き合う時間を持てず、眼を
   外にばかり向けているということがあるのかもしれません。
    親鸞聖人は晩年に、
   
      悪性さらにやめがたし
       こころは蛇蝎のごとくなり
       修善も雑毒なるゆゑに
       虚仮の行とぞなづけたる  (『註釈版聖典』617頁)
   
   という和讃をお作りになっています。この和讃の意味は、私たち凡夫は生まれつき
   悪を好むようにできていて、その性質を変えることなどできるはずもなく、心はま
   るで蛇や蝎が毒をもっているように、煩悩という毒をもっていて、そんな私たちが
   たとえ善い行いをしたとしても、それは煩悩の雑じった善行であり、とても真実の
   行とは言えないというのです。ここに示された姿は、まぎれもなく念仏の教えを通
   して見えてきた私たちのありのままの姿です。
    親鸞聖人は念仏の教えと出遇うことにより、苦しみの多い人生を力強く生き抜か
   れました。念仏の教えに出遇うことは、自己のありのままの姿を知らされることで
   あり、同時にそんな私が阿弥陀仏にそのまま摂め取られているという喜びを得るこ
   とでもあります。
    念仏の教えと出遇い、自己のありのままの姿を知ることが、どうして苦しみ多き
   人生を乗り越えていく力となるのでしょうか。たとえば、私たちが漆黒の闇の中に
   放り出されたとしましょう。周囲の状況がまったく把握できません。断崖絶壁の近
   くなのか、大きな岩や倒木が横たわっているのか、地面に大きな穴が空いているの
   かまったくわかりません。そのような状況下に置かれた時、私たちは恐らく不安で
   身動きが取れなくなることでしょう。ところがそこに一条の光が差し込んでくると、
   周囲の状況が次第に分かってきます。闇の中の状況と、光が差し込んできたことで
   認識できた周囲の状況に、まったく違いはありません。しかし光が差し込んできた
   だけで、私たちは安心します。そして進むべき方向もはっきりします。同じことは、
   自分自身についても言えることではないでしょうか。自分自身がわからないことほ
   ど不安なことはありません。念仏の教えに出遇ったからといって、煩悩が消えるわ
   けでも、苦しみが消えるわけでもありません。しかし念仏の教えに出遇い、自己の
   ありのままの姿を知らされることにより安心し、苦を乗り越えていくことができる
   のです。
   
  ◎自分と向き合うことの大切さ
    私が勤めている京都女子大学では、1回生と3回生時に仏教学が必須科目となっ
   ています。その中で礼拝の時間が半期ごとに3回設けられていて、この時間を多く
   の学生が楽しみにしています。「三帰依」「さんだんの歌」「念仏」「法語朗読」
   「法話」「恩徳讃」という次第で進められます。全員が静かに手を合わせた姿は、
   とても美しいものです。礼拝堂という非日常的空間の中に身を置いて、自己と向き
   合います。ともすると、私たちは慌ただしい毎日に振り回され、自分自身を見失い
   がちです。若い学生たちも多くの悩みを抱えています。入学当初は仏教に批判的な
   目を向けていた学生も次第に親しみを覚え、自身の抱えている悩みを念仏の教えを
   通して解決していく学生もでてきます。
    人間は恐らく誰もが、自分の存在を認めて欲しいのです。肯定して欲しいのです。
   ところが肝心の自分自身が、自分を肯定できなくて苦しんでいます。個性が重視さ
   れるべきだといいながらも、一方では世間の価値観を押し付けられ、それに振り回
   されています。そうした中にあってそっと自分自身と向き合い、親鸞聖人の説かれ
   た念仏の教えを聞くことによって、ありのままの自己と向き合い安堵し、ありのま
   まの自分を受け入れていく学生もいます。青春時代は、特に感受性が強く悩み多き
   時代ですから、一層念仏の教えが必要とされているのかもしれません。
    大学のオープンキャンパスを訪れた高校生に、
   「どうして本学を希望されるのですか?」
   と質問したところ、
    「おばあちゃんから、京都女子大学に入学して仏教学を勉強してこい、と言われ
   ましたので」
   という答えが返って驚いたことがあります。心理学者の河合隼雄先生が、「おじい
   ちゃん、おばあちゃんは導者である」といった主旨の文章を書かれていたのを思い
   出しました。念仏者の後ろ姿が、また念仏者を育てているのかもしれません。