仏事いろいろ

2013年お彼岸《秋》
◆無常に聞く   北畠晃融 〔前中央仏教学院長 奈良県阿弥陀寺衆徒〕 
                                          (本願寺出版社 2013年9月1日発行)

        
  ◎お彼岸のうけとめ方
    彼岸はサンスクリット語でParamita(パーラミター)といい、「最高の状態」と
   いう意味です。この言葉が中国で「到(とう)彼岸(ひがん)」と漢訳されました。つ
   まり彼岸という言葉は「最高の状態=悟りの世界」をあらわしているのです。この
   彼岸に対する言葉を此(し)岸(がん)といいますが、これは「迷いの世界」のことで、
   此(この)岸(きし)から煩悩の河(かわ)をわたり彼岸(かのきし)に到る道を知り学ぶ
   のが彼岸の仏縁です。春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」、秋分の
   日は「祖先をうやまい、なくなった人びとをしのぶ日」といわれます。普段は忙し
   くて自分の人生を問うことなく過ごしがちな私たちですが、気候のおだやかな春秋
   だけでも仏縁を深める機縁となるよう彼岸会の法座が開かれるのです。
    私は秋のお彼岸の季節になると、かならず母の言葉を思い出します。九月は、く
   も膜下出血で倒れ、わずか20日間ほど入院生活で往生した母の祥月命日があるか
   らです。
    忙しさのあまり、その年のお盆にも帰省できずにいた私に、母は電話をかけてき
   て「連絡がないのは元気な証拠。いいか、必ず子どもと一緒にお参りをするように」
   と、何度も繰り返し話してくれました。母が倒れる3日前のことでしたので、それ
   が母との今生最後の会話でした。
    あの時の母のことを思うと、吉野秀雄氏の「在りし日の母が勤行(つとめ)の正信
   偈 わが耳底に一生(ひとよ)ひびかむ」という歌が思い出されます。生前の母も私
   たち子どもに、勤行の大切さを、その身をもって示し続けてくれました。母が亡く
   なってから、「子どもと一緒にお参りしてくれているか」という喚(よ)び声がお念
   仏となって、いつも私の耳底に聞こえてくる思いがします。
    親鸞聖人は『浄土和讃』に、
   
      安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては釈迦牟尼仏のごとくにて 利
      益衆生はきはもなし            (『註釈版聖典』560頁)
   
   とお示しくださっています。有縁の亡くなられた方がたは彼岸の仏になられお浄土
   にいながら「あなたも聴聞(ちょうもん)させてもらい浄土に生まれるんですよ」と
   喚びかけ、無常の風のなかに生きる私たちを導いてくださるのです。
    彼岸会のご縁を通して、無常の中にある私たちの生命(いのち)の行方の解決がい
   かに大切であるかを味わって行きたいと思います。
   
  ◎無常を超えた世界へ
    無常を語るとき、引きあいにだされる言葉に、
   
      ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたか
      たは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と
      栖(すみか)と、またかくのごとし
   
   という『方丈記』の一節があります。「人も、栖も共に泡沫(うたかた)のようなも
   の」という無常のとらえ方は、大きな共感を与えてきました。しかし、この感覚は、
   川岸の上から見ている感覚であり、自分そのものがそこに入っていません。自らが
   無常のまっただ中の泡沫であるとの自覚にたった時こそ、私の生き方のうえに大き
   な意味が生まれるのです。
    ある哲学者が「他人と自分の違いよりも、昨日と今日の自分の違いの方がよほど
   大きい」という意味のことを述べています。私たちは他人のことには目が向きます
   が、なかなか自分の相(すがた)を見つめることをしません。変わることがないと思
   っているこの私自身が、実際には刻一刻と確実に変化をしており、やがて死を迎え
   ねばならぬ事実をあらわしているのです。このように「世界のあらゆるものの本当
   の相は絶えず変わり続けている」という事実を、釈尊は諸行無常と示されました。
   これこそが仏教の出発点なのです。仏教で説く無常とは、先の『方丈記』の一節の
   ように、散って滅んでいくという側面だけでなく、常に変化することを意味します
   ので、当然ながら、誕生し、成長し、発展していくというような側面も含んでいま
   す。草木は秋になれば落葉し、春になれば芽吹きます。すべてのものを生と死の両
   面でおさえ、時々刻々と変化する相(すがた)を、私自身のこととして受けとめると
   ころを、諸行無常というのです。
    また、釈尊は死の直前に、「もろもろの事象は移り変わる。汝、怠りなく努力せ
   よ」と、嘆き悲しむ弟子たちに伝えたいといいます。この遺誡(ゆいかい)は、人間
   は限りある生命(いのち)をたまわり、誰一人として無常の現実を避けられない中で、
   今の一時すら無駄にせず、無常を超えた真実の世界をめざし精進努力するべきこと
   を教えているのです。
   
  ◎老・病・死は異常?
    妻が知人の葬儀にお手伝いに行った時、知人の子どもの姿が見えなかったので尋
   ねると、「祖父の死に顔を見せたくないので親戚に預かってもらっている」という
   返事だったと話してくれたことがありました。これでは家族の中で大事なことが伝
   わっていかないのではないでしょうか。
    以前、新聞に「都市圏では九割の人々が病院で亡くなるため、日常生活から死が
   切り離され、老・病・死は異常なものであるかのような考えが生まれている。この
   ように世間が子どもたちに老・病・死を忌み嫌われるような世界を創り出している
   ・・・」という内容のことが書かれていました。亡くなられた方のお骨を拾い、い
   ろいろな思い出を話すことは、大切な感情を育んでくれます。しかし、現代は死を
   異常なこととして消し去ろうとしているようです。
    仏教では人生を生死としてみます。生まれたからには死を避けることはできませ
   ん。まさに生と死は表裏一体なのです。死を異常なものとして遠ざけることは、自
   分自身の生命を粗末にする生き方といえるのではないでしょうか。現代社会の風潮
   のなかで反省せねばならないことなのかもしれません。
    本願寺第八代宗主の蓮如上人は、
      わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくも
      あるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。
              (『蓮如上人御一代記聞書』『註釈版聖典』1252頁)
   と仰せです。諸行無常のまっただ中にいる今の今、私の得難い生命の意味を考え、
   その生命の行方を学ぶことの大切さを教えてくださっています。それはまさに、身
   近な人の死を通して生命のありようを聞き、それを伝えていくことの大切さです。
    老・病・死は決して異常でなく自然なことです。仏教では、無常の人生の中で生
   じる苦悩すら無駄にせず、その意味を見いだし、それを乗り超えていく道を説きま
   す。しかし、それは現実の苦悩が消えてなくなるということではありません。仏の
   教えを身につけるということは、尽きることのない苦悩を、真正面から受けとめら
   れる人間になるということなのです。
    また、本願寺第3代宗主の覚如上人は、
   
      二季の彼岸をもって念仏修行の時節と定むる、いはれなき事
                      (『註釈版聖典』「改邪鈔」929頁)
   
   と誡められ、仏縁は春秋の二季だけに限るものではなく、平素から聴聞することの
   大切さをお示しくださっています。
    春秋の彼岸会はもちろん、普段から聴聞することによって、生死一如を説く仏意
   を汲みとり、お念仏相続の歩みをさせていただくことが、浄土真宗でつとまるすべ
   ての法要の意義であるのです。