仏事いろいろ

2013年お彼岸《春》
◆浄土真宗のお彼岸   河添泰信
                     (龍谷大学文学部教授 宮崎県西導寺衆徒)
                                          (本願寺出版社 2013年2月1日発行)

        
  ◎お彼岸を迎えて
    お彼岸には春と秋に法会がありますが、春と秋では受け取る気持ちが随分と違う
   ように感じられます。それは「暑さ寒さも彼岸まで」と言い慣らされる季節感から
   くるものでしょうか。それぞれの彼岸の法会では、「まだまだ寒いですね」とか「
   まだまだ残暑が厳しいですね」という言葉が聞かれます。
    季節の変化は、周りの木々や花々が正直に教えてくれます。
    春のお彼岸は、短かった太陽の輝きも除々に長くなり、また草花の新芽が出はじ
   め、生命の活発な活動を予感させます。
    また、秋のお彼岸は、赤や黄、白色などの彼岸花が印象的です。これからの秋の
   気配に思いを至らせ、生命の結びを感じさせるように思われます。
    このように、同じお彼岸でも春と秋とでは、人の心象風景は随分と異なり、それ
   ぞれに違った味わいがあります。
    さて、お彼岸と言うと、人は一体何を思い浮かべるでしょうか。この時期になる
   とテレビのニュースでも見られますように、お墓参りを最初に思い起こす人が多い
   のではないでしょうか。
    各地方によって習慣は異なりますが、多くの地域では年に四回ほどお墓参りに行
   かれると思います。春のお彼岸、お盆、秋のお彼岸、そして年末です。季節ごとの
   お墓の掃除も兼ねてのお参りであろうと思いますが、なぜ、人はお墓参りをするの
   でしょうか。一般的には、「鎮魂」、「供養」、「追憶」のため、というようなこ
   とが考えられます。
    第一の鎮魂のためというのは、慰霊祭、鎮魂祭などと言われるように、故人の霊
   魂を鎮めるためにお参りするというものです。
    第二の供養のためというのは、亡くなった祖父母、さらには父や母など、有縁の
   人である死者の冥福を祈るというものです。
    さらに、第三の追憶のためというのは、忘れようにも忘れられない人との心の交
   流を願って行われるものであろうと思います。
    もちろん、一般的なお墓参りの意味は、それぞれの意味が重なり合ってあると言
   えますが、そこで、鎮魂や供養、追憶といった捉え方とは異なった、感謝という意
   味を持った浄土真宗のお彼岸やお墓参りについて考えてみたいと思います。
   
  ◎「お彼岸」とは
    仏教では「彼岸」とは「彼の岸」という意味で、真実の世界、清浄の世界、浄土
   のことをさします。それに対して、私たちが今生きているこの喧噪(けんそう)にま
   みれた世界を、「此(こ)の岸」と言う意味で「此(し)岸(がん)」と言い、浄土に対
   しては、「穢土(えど)」と言います。私たちは、仏法に出遇うことによって、彼岸
   であるお浄土の阿弥陀さまに導かれ、この此岸から彼岸の真実の世界をめざして生
   きる人生、言い換えるなら仏法による人間的な成長や学びをいただく人生を歩ませ
   ていただきます。そのために設けられた期間が、お彼岸ともいえるのではないでし
   ょうか。
    また、お墓は本来どのような意味でつくられ、お参りするようになったのでしょ
   うか。日本の仏教儀礼や習俗に多大な影響を与えたと考えられる中国の儒教に関す
   る本を見てみますと、中国では、人間が亡くなるとその人の魂は頭部に宿るため、
   頭骨こそがもっとも大事であり、本来は魂の宿る頭骨を祀っていたということです。
    それに対して、魂の宿らない首から下の遺骨は意味を持たないものという扱いを
   受け、野山にすてられてもかまわないものであったということです。しかし、遺骨
   を動物に荒らされるのは忍びないということで、遺骨をまとめておくところとして
   お墓ができました。このように、中国ではお墓よりも先祖の魂が祀られている祀堂
   こそが重要とされたのです。
    一方で、日本の場合はどうでしょうか。日本では、中国の儒教の影響を受けなが
   らも、お墓は頭骨にある魂を安置するという受け止めよりは、故人そのものを安置
   するところという意味が強いものと思います。それゆえ、気候のいい春と秋のお彼
   岸には先祖を偲んでお墓参りをするという習慣ができたのではないかと思います。
   
  ◎季節の変わり目を人生の縁として
    門信徒として日頃からお寺にご縁がある方と、そうでない方では、お寺に求める
   ことが異なっていると言われます。日頃ご縁のある方は、自身の人間としての成長
   や学びを願われ、そうでない方は、概して故人の鎮魂や供養、追憶を願うことが主
   であると言われます。人間的な成長とか、学びと言っても、一般的にはその内容は
   多種多様ですが、一言で言えば、仏法による人間的深まりの学びということに尽き
   るのではないかと思います。
    お墓参りも自分が今あるのは先祖のおかげという思いでされるでしょう。それゆ
   え、そこには先祖への感謝の思いがあります。今ここにいる自分は、先祖とのはか
   り知れないいのちのつながりのなかにあることは言うまでもないことですから、自
   分の先祖への感謝は、そのまま限りない先祖への感謝でなければなりません。しか
   しながら、まったく面識のないはかりしれない先祖への感謝が、果たして自分には
   本当にできることなのでしょうか。こう考えたとき、そのような先祖への感謝は、
   すべてのいのちを救うという無限のいのちの象徴である阿弥陀仏の願いによって私
   たちが、真実の世界に向かって歩みはじめなければ、真実の感謝にはならないので
   す。
    感謝とは自分が行うものであることに間違いはないのですが、真実の感謝とは、
   大いなる阿弥陀さまに支えられた感謝であり、それゆえに、墓参りは自分知ってい
   る限りある先祖への感謝を超えて、阿弥陀仏の大悲につつまれて限りなく連なるい
   のちへの感謝へとつながるものです。
    『歎異抄』第四条によると親鸞聖人は、
   
       一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。
                           (『註釈版聖典』834頁)
   と味わっておられます。
    過日、国民の豊かさとは、物質的な満足度ではなく、人びとの幸福量だという考
   えをもつ、ブータン国の若き国王夫妻が来日されました。その国の人の願いは、自
   分の幸せではなく、すべての人びとの幸せであると聞いたことがあります。
    お墓参りをはじめとするお彼岸の様々な法会は、真実なる阿弥陀さまに支えられ
   てい生きていることを感謝することによって、わたし自身が限りないいのちのつな
   がりの中の一人であることに気づき、此岸から彼岸に向かって人間的成長の学びを
   深め歩む機会であると言うことができます。そのように味わいながら、今年もお彼
   岸を迎え、ともどもに感謝のお念仏を申したいと思います。