仏事いろいろ

2012年報恩講
◆報恩講に遇う   貴島信行
            (龍谷大学教授 中央仏教学院講師 本願寺派布教使 大阪府真行寺住職)
                                          (本願寺出版社 2012年9月1日発行)

        
  ◎インターネットでも報恩講
    今年も報恩講の時節がめぐってまいりました。
    去る1月にはご本山で親鸞聖人750回大遠忌法要御正当が円成され、50年
   に一度の節目となる親鸞さまのご法事に、日本はもとより世界各地から143万
   人の御同朋御同行が参拝されました。
    報恩講は毎年ご本山で厳修される御正忌報恩講法要に先立ち、秋の収穫が終わ
   る頃より営まれる習慣が各地にあり、それは「お取り越し」「お引き上げ」など
   と呼ばれています。両親をはじめ祖父母が親しみをこめて口にしてきた「ほんこ
   さん」という表現には、何ともいえない懐かしい語感や響きがあります。
    「50年に一度の親鸞さまのほんこさんに遇いたい」とかねてより口にし、心
   待ちにしていた私の母は、昨年から要介護の身となってしまったことで、念願で
   あった本願寺への参拝はかないませんでした。でも御正忌報恩講の様子がインタ
   ーネットで配信されているおかげで、自室に居ながらにして御正当法要に遇うこ
   とができました。美しく荘厳された内陣の映像に感嘆し、聖人の御真影さまに向
   かって合掌し、お念仏申しました。
    身体も声も小さくなり、不自由な老いの身となった母ですが、数え年90歳ま
   でいのち恵まれ、こうして親鸞さまのご恩によってお念仏申す身に育てていただ
   いたしあわせを感じつつ、ともに「恩徳讃」を唱和いたしました。
    報恩講は親鸞聖人の恩徳を讃嘆し、聖人を介して、私たちが本願に遇い、み教
   えを聴聞し、一味の信心に生きるよろこびを確かめ合い、語り合うという、文字
   通り「報恩」の心が中心となる集いです。「恩」とは原語はカタンニュー〔為さ
   れたことを知る者〕で、辞書には「心の上にのしかかって何かの印象を残すこと。
   恵みを与えてありがたい印象を心にしるすこと」と説明されています。また「講」
   には「双方が納得して同じ理解に達するように話すこと」という意味があります
   から、「講」に集うお互いが「報恩謝徳」という共通の志を確認し、さらに多く
   の恵みを感じ取ることのできる広やかな心を養う場としてきわめて大切な意義を
   もっています。
   
  ◎ブリキの下駄で
    もう随分以前のことになりますが、篤信の念仏者であったHさんが、自坊報恩
   講のおりに法友との忘れ得ぬ思い出を私に語ってくださったことがありました。
   それは、常日頃から別院の法座などで聴聞されているご婦人のことで、あるとき
   自分の家へ下駄の音をカチャカチャと鳴らしてやってきて、今から別院の報恩講
   に参拝するので一緒にどうか、と誘われました。一緒に行くのはいいが、何故そ
   んなに大きな音がするのかと理由を尋ねると、その人は下駄を長持ちさせたいの
   で下駄の裏にブリキを張っている、なるべく歩いてバス代を節約し下駄も減らな
   いように工夫して、貯めたお金を懇志として納めたい。自分にはこんな事ぐらい
   しかできないし、苦にはならない、といわれた。そのときの感動と尊い行動を思
   い出すと、今でも涙が出てくる、と涙声になって話されたことでした。
    会話のきっかけが何であったかのか定かではありませんが、物事の表層にとら
   われ、報恩謝徳の尊さに気づけないでいる私に向けられた誡めであったと、今も
   有り難く心に残っています。
    Hさんは自分の名前を終生「法名」で名乗られた人であり、ご報謝の一端にな
   ればと生前の願い通り、ご夫妻揃って大学の医学部に献体されました。
    『蓮如上人御一代記聞書』には「信決定の人は、仏法の方へは身をかろくもつ
   べし。仏法の御恩をばおもくうやまふべし」(信心の人はわが身を軽くして報謝
   に努め、仏法のご恩を重く大切に敬わねばならない)(『註釈版聖典』1307
   頁)とあり、また「仏法に深く帰依した人に親しみ近づいて、損になることは一
   つもない。その人がどれほどおかしいことをし、ばかげたことをいっても、心に
   は必ず仏法があると思うので、その人に親しんでいる自分に多くの徳が得られる
   のである」(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』193頁)という法語も見
   られます。
    今の時代は科学的なものの見方がすすみ、表面的な数値や効率の善し悪しによ
   って比較され、成果のみが求められていく傾向が顕著になっています。しかしな
   がら私たちはそうした世の価値観に流されることなく、仏法のものの見方によっ
   て、一見忘れ去られてしまうような何気ない出来事にも、一笑に付されてしまう
   ような行為にも、背後にひそむ尊い意味と営為に心をよせる日々を送りたいもの
   です。
   
  ◎もちつもたれつ、ありのまま
    ところで、昨年の世相をあらわす漢字一字は「絆」でした。東日本大震災では、
   想像を絶するような甚大な被害と大切な人との悲しい別離がありました。さらに
   は原子力発電所の大事故による放射能被害により、現在もふるさとを離れ、家族
   との別れを余儀なくされている数多くの方々がおられます。
    もともと人と人との絆はもろく、危いものです。無常の世に生きる私たちは、
   突然にして愛しい人との別離を経験し、妻や子、財産、そして自分自身さえも、
   すべてがこの世につなぎ止めるよりどころとはならないことを思い知らされます。
   そこに生死に苦悩し、煩悩に惑う人間の深い悲しみがあります。仏教ではこの世
   のあらゆる成り立ちはもちつもたれつ、様々な因と縁、条件が重なりあって生起
   するという縁起の理法を根本として説きます。ですから縁起を聞くことは、自ら
   のありのままの姿を知り、目に見えない多くのいのちに支えられ生かされている
   自己に気づくことになります。そして生と死の断絶を超えて新たにつながる、念
   仏という永遠の絆に目覚めていくのです。
    中学生の小齊可菜子さんは昨年の大地震と津波によって大切な友だちを失いま
   した。そして被災の体験はやがて他の人びとの優しさ、多くの人びととのつなが
   りを知るご縁となり、文集では「私たちを全力で支えてくれている、世界のたく
   さんの人達がいます。・・・(中略)・・・世界中の人達のおかげで、私たちは
   生きていくことができます。災害にあって、本当に人の優しさがわかりました。
   これからも、世界中の人に感謝して、いつか恩返しできることを信じながら、元
   気に生きていきたいと思います」(『つなみ―被災地のこども80人の作文集』
   文藝春秋)との心情を記して、新たな目標に向けて歩みはじめています。
    今年も報恩講に遇い、「生きとし生けるものをもれなく救う」と誓われた阿弥
   陀如来の御心を聞き、私もまた仏祖の恩徳を報ずる生活について、思いをめぐら
   せています。