仏事いろいろ

2012年お彼岸《秋》
◆ある結婚式での出来事   淺田正博
            (浄土真宗本願寺派勧学 龍谷大学文学部教授 大阪府因念寺住職)
                                          (本願寺出版社 2012年9月1日発行)

        
  ◎「恩徳讃」と「白骨の御文章」
    お彼岸は亡き人を偲ばせていただきながら、私もその人の後を追う身である
   ことを自覚する日であると私は考えております。そういう私の死も、阿弥陀さ
   まへのおまかせの中にあると味わわせていただくことが大切なことでしょう。
   おまかせさせていただく世界のある有り難さを、私は近頃の出来事の中から再
   確認させていただきました。
    それは今春のことで、仏前結婚式の司婚を依頼されたことに始まります。仏
   前結婚式は本山でも、またそれぞれの寺院でも執り行われています。今回はお
   寺の若院さんでしたから、自坊の本堂で挙行されました。
    内陣の余間で十人ほどの楽人さんによる笙・篳篥が合奏される中、法要が始
   まりました。みんなでお勤めを済ませますと司婚者の私が外陣に出て、新郎新
   婦に結婚の誓約を求め、結婚が成立したことを宣言するのです。その後、関係
   者が焼香する中、声明の先生が「恩徳讃」を独唱してくださいました。一層、
   厳かな雰囲気が醸し出されました。続いて司婚者が十分程度の法話を行います。
   私は「お念仏の薫る家庭を築いて下さい」という話をしました。
   「念仏」は聞こえるのであって「薫る」のではないと思いますが、「薫る」と
   表現するところに「お念仏に染まる家庭の素晴らしさを味わってほしい」とい
   う内容でした。そして親族一同で乾杯の盃を挙げて、式はお開きとなりました。
    ところで、声明の先生が私に、
    「二、三日前のことですが、新郎が私の自坊へ来られて『恩徳讃』ではなく
   『白骨の御文章』を唱えてほしいと依頼されて、たいへん驚きました」
   と話してくださったのです。「白骨の御文章」とは、
   
      それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは
      この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
                        (『註釈版聖典』1203頁)
   で始まる有名な文ですが、これは特別な時だけに唱える慣習になっています。
   すなわち、亡くなられた人が荼毘に付されて白骨になって自宅に戻られた時、
   いわゆる「還骨勤行」の時なのです。それは本文中に、
   
      されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。
                        (『註釈版聖典』1203頁)
   という文面があるからです。人間の儚さや無常を直視すれば、如来さまに全て
   をおまかせする以外にはないという内容です。このような御文章を結婚式に唱
   えてほしいと依頼されたのですから、声明の先生の驚きも想像できます。
    「これは通常、結婚式で唱えるものではありません。しかしどうしてもと言
   われるなら、双方のご親族の了解を得てきてください」と答えられたそうです。
   「では、これから説得します」と言って帰られたものの、昨日、「どうしても
   説得できませんでした。最初お願いしておりました『恩徳讃』を独唱ください」
   と電話があった、というのです。
    私はその話を聞いて「今の若い人が求めるサプライズの一種かな?」と思い、
   気に留めずにおりました。
   
  ◎無常の上の慶び
    結婚式が終わって五日目のことです。突然に新郎のお母さんがなくなられた
   のです。お通夜で、数日前に結婚式を挙げられたお二人が並んで座っておられ
   る姿を目の当たりにして、「白骨の御文章」を思い出しました。「ひょっとす
   ると、彼らには何か大きな意味があったのではなかったかな?」
    少し落ち着いた頃、私は新郎に電話しました。
    「結婚式に『白骨の御文章』を独唱して欲しいと依頼した意味は・・・」
   と尋ねますと、すぐさま「サプライズを期待してではありません」と明確に答
   えが返ってきました。
    一年あまり前、友人と一緒に食事をしての帰り、気楽に「じゃあね!」と別
   れた彼が、二日後、誰にも看取られずに下宿先で心臓発作を起こして死んでい
   たということです。もちろん、病気がちであったそうですが、親しかった友達
   が突如居なくなったことは、彼にとって相当な人生の無常を味わわされた出来
   事だったのでしょう。
    「結婚式で、お幸せにね! と皆さんから声をかけていただくのは有り難い
   ですが、結婚の慶びも、結局は人生の無常の上に立った喜びであることを忘れ
   てはいけないと彼女と話し合って、式の中で『白骨の御文章』を唱えてほしい
   と依頼したのです」
   とその真意を語ってくれました。
    私はこの彼の言葉にたいそう感動しました。しかし、そのように固い信念を
   抱きながら、どうして皆さんを説得できなかったのかと尋ねますと、「自分の
   未熟さです」と彼は語りました。そこで、
    「それならば、どうして僕に連絡してくれなかったのかな。それだけの信念
   があってのことならば、僕も皆さんを説得するのに協力したのに・・・」
   と言ったのです。
    結婚式には「忌み語」があると言われます。「死ぬ・苦しむ・別れる・終わ
   る・重ねる」等々です。このような言葉は祝辞の中で決して使用してはいけな
   いというところから、「忌み語」と呼ばれるのでしょう。その意味からすれば、
   忌み語の代表が「白骨の御文章」であるといっても過言ではありません。皆さ
   んが反対される意味もよく分かります。
    しかし新郎新婦の主張も素晴らしいと思います。ここにこそ仏前で結婚式を
   執り行う本当の意味があるようにすら思います。ですから通常結婚式に使用さ
   れることのない「白骨の御文章」を、なぜ独唱するかを司婚者の私が解説し、
   それを題材として法話をすれば皆さんも納得されただろうと思えたからです。
   だから「どうして僕に言ってくれなかったのか」と問いかけたのです。
   
  ◎おまかせさせていただく世界
    私は今回の結婚式で大いに教えられました。それは「偏執」ということです。
   偏った物の考え方です。結婚式は「慶び」の一面に偏りすぎ、その反面に「無
   常」のある事をあえて見ようとはしません。あえて見ない面を「忌み語」と称
   して退けるのでしょう。しかし、やはり「無常」の上に立った「慶び」なので
   す。だからといって、今度は「白骨の御文章」を唱えて「無常」の一面だけを
   強調しても問題があります。「無常」に偏った物の見方しかできなくなるでし
   ょう。
    この両面を見ながら、なお且ついずれにも偏執しない生き方が必要です。こ
   こを仏教で「中道」と呼んでいるのです。これは結婚式だけでなく、どのよう
   な場面でもいえることです。この中道の生き方こそが、本当の人生の生き方と
   いっても良いでしょう。
    確かに自分でこの中道を実践しようとすればするほど、それは実に難しい生
   き方であるといえます。真剣に考えれば考えるほど、自らの生きる道を失って
   しまうかもしれません。しかし私たちお念仏者は、知らず知らずの間にこの中
   道の生き方をさせていただいているのです。阿弥陀如来さまにすべてをおまか
   せすれば、その生き方が可能なのです。
    「いつまで生きていても良い。また、いつ、命終わっても良い」
    これこそ、おまかせによって無執着に生かさせていただくお念仏者の生き方
   でしょう。何と有り難いことでしょうか。おまかせさせていただく世界のある
   有り難さを、私は今回の出来事で知らせていただきました。