仏事いろいろ

2011年報恩講
◆報恩講ーいのちにめざめる集いー   山崎龍明
                     (武蔵野大学教授 同大学仏教文化研究所前所長 東京都法善寺前住職)
                                          (本願寺出版社 2011年9月1日発行)

        
  ◎「おみがき」はこころの交流
    「おみがき」。和知市にとってなんとも懐かしい言葉です。私が子どもの頃、
   「おみがき」に集まった皆さんはとても楽しそうに、親鸞さまのこと、お寺の
   こと、いろいろなお喋りをされていて、それは賑やかな光景でした。今でも報
   恩講と親鸞聖人降誕会の前に、ご門徒の方がたが、「おみがき」をしてくださ
   います。楽しそうにご奉仕してくださる方がたと仏法のお話ができることが、
   嬉しいのです。
    人が集って肩と肩が触れ合うぐらい近づき、皆さん必死に、お輪灯、蝋燭立
   などをみがいてくださいます。みるみるうちに綺麗になっていくお仏具をみて
   いると、法要が待ち遠しくなります。
    しかし、この頃の目まぐるしい変化の中で「おみがき」へのお誘いをすると、
   「おみがき」ってなんですか、と言われる方も多く見かけるようになりました。
   また「おみがき」を、ただ食器を洗うかのように考えている方もおられるよう
   です。「おみがき」はご法要をお迎えする際の私たち真宗者の心の準備だと、
   私は考えています。
    「おみがき」は、ただお仏具をみがくのではなく、そこに集まっている人同
   士の心の交流となります。お寺という空間はこのような心の交流の中で、仏法
   に遇い、親鸞さまに遇い、私に遇うところなのです。
  ◎仏教がなんの役に立ちますか
    私は平素は若い学生たちと、仏教を勉強しています。
    少し前のことです。大学での授業が終わって教室を出ようとしていましたら、
   一人の学生に呼びとめられました。
    「今日の授業で、仏教では人生は苦なりと認識すると聞き、少しだけ気持ち
   が楽になりました」といって彼女は、なんともいえない笑顔を見せてくれまし
   た。私はとても温かい気持ちになりました。
    ひょっとしたら、彼女は何か大きな問題を抱えているのかもしれません。「
   生きるということは苦しみを抱えることである」という言葉を聞いて「気持ち
   が楽になった」といえるのは、その人が苦しみの中にいるからだと思います。
    私が接している学生の多数は、仏教の授業を聞きたいと思っていません。む
   しろ、抵抗感を持っている学生も多いでしょう。極端な話、入学してから仏教
   の学校だと気づいた、という学生もいます。
    教団に立って40年ほどたちますが、一年生の必須単位である仏教の授業は
   実に大変です。人数が多いということもありますが、その多くは聞きたくない
   学生だからです。その学生に90分間聞いてもらうということを、想像してく
   ださい。私はこの授業が終わると疲れがドッとでます。
    最近は、国家試験を受ける学科の学生が、「仏教など勉強してなんの役に立
   ちますか」と詰め寄ってきたりします。このような問いは、大切な教材だと私
   は思っています。
    「仏教がなんの役に立つか」
    大事な問いですネ。例えば、「就職のため」「資格試験合格のため」「お金
   を手に入れるため」「他の人とうまくやっていくため」に役に立つかといわれ
   たら、それはどうかは分かりません。
    しかし、この世に生まれ、今ここに生きている、いや生きて行かなければな
   らない、という事実の中で生ずる様々な問題。仏教はその問題の根源を問い、
   生き方を学ぶ道だと私は考えます。仏教は仏道なのです。単なる教えではあり
   のせん。
    私は「人生は苦しみである」ということの中味を、人生の4つのしくみとい
   って学生たちに聞いてもらいます。
    1.生きることはままならないということ。
      (何一つとして自分の思い通りにならない。にもかかわらず、すべてを
       思い通りにしないと気がすまない私)
    2.生きるということは、実に難しいということ。
      (周到な計画や、いくら努力してもその成果が必ずしも現れない。種を
       まいても、必ず実が取れるという保証はない)
    3.生きるということは、煩わしいもの。
      (何か事に当ろうとすると、反対の人が現れたりして、自分の考えてい
       る通りに進まない)
    4.今生きている命には、限りがあるということ。
      (いつまでも生きていくことは出来ず、必ずいつかは「死」がやってく
       くるということ)
    要約すると、この4つになるといってもいいと思います。
    この「ままならず」「難しい」「煩わしい」「限りあるもの」という事実に
   深い目覚めを与えるものが、私たちが学んでいる、親鸞聖人のお念仏の教え(
   法=道理)であると私は領解するのです。私は今、私の人生の身近なところで、
   この4つのしくみといくら努力しても、どうしようもないこともあります。
    北海道の旭山動物園の元園長さんが、
    「努力は成果を約束しない。しかし、努力しなければ何も始まらない」
   と言われました。味わい深い言葉だと思います。努力は成果を前提としますが、
   仏教が説く精進というのは、「成果を期待して努めるのではなく、努めること
   に意味と尊さがある」という世界です。
  ◎であい、別れ、ともに尊し
    しかし、私の心の隅で「成果」を期待している自分に気づかされます。
    「人と人とが仲良くする。家族が、国民が世界の人々と仲良く手を結ぶ」こ
   んなに素晴らしいことはありません。そこに「縁」を感じます。仏法では、出
   遇いの尊さを「縁」といいます。素敵な言葉だと思います。しかし言葉だけで、
   その縁をほんとうに喜ぶということはあまりなさそうです。
    親鸞聖人は「別れも縁」といわれています。出遇いだけでではなく、別れも
   縁というのです。すごいですネ。自分のもとから離れて行く念仏者の問題が起
   った時、怒り、慌てふためく念仏者たちを前に親鸞聖人が言われた言葉です。
   
     つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるる
                         (『註釈版聖典』835頁)
    なんと開かれた心の持ち主なのかと、驚きます。私たちは、縁があって出遇
   い、縁が尽きて離れる、ただそれだけのことなのです。よい人と出遇い、そし
   て別れの縁によって離ればなれにもなる、これが道理なのです。このことに目
   覚める時、心が解放され安らかになれます。それが念仏に生きる物の世界なの
   です。
    「出遇いが人生を豊かにし、別れが人生を深くする」という言葉があります。
   私は今「出遇いの縁。別れの縁、共に尊し」という渦中にあります。しかし、
   いつか「出遇いの縁、別れの縁、ともに有り難し」といえるように、一層聴聞
   したいと思います。仏法の道明るしです。報恩講はここのところを聴聞する絶
   好の機会です。
    報恩講は仏のめぐみ(恩)をよろこび、それにこたえて(報恩)動き出すこ
   とを誓う新たな出発の集いです。