仏事いろいろ

2011年お盆
◆浄土真宗とお盆   林 智康
         (浄土真宗本願寺派勧学 龍谷大学教授 福岡県光円寺住職)

        
  ◎東日本大震災のなかで迎えるお盆
    3月11日午後2時46分、その時、私は勤務先の大学の研究室で、椅子に座って
   パソコンを見ていました。一瞬横揺れを感じ、「ふらっ」と二日酔いのような
   気分になりました。「おかしいなあ」と思っていたら、隣室の教授が突然入っ
   て来られ、「今、何か起ったよ」と言われたので、すぐラジオのスイッチを入
   れたところ、東北地方で大地震が発生したという報道が耳に入ってきました。
   ております。震災後、しばらくして電話したところ、「家族は皆無事であるが、
   自分は小学校で寝泊まりをしている」という返事でした。
    そしてお見舞い金を送ったところ、先日礼状が届き、「このたびの大震災に
   は恐怖を感じ、特に礼拝堂・山門などの損傷が激しく、しかし今なお余震が続
   き、修復も進んでいない」と、その後の状況が記されていました。
    また彼は、4月28日の本願寺阿弥陀堂における「東日本大震災四十九日法
   要」に出向依頼を受け、ご門主・お裏方・新門様、お三方のご臨席の前で、震
   災の内容を含めて法話を行ったということです。誠に有り難く思います。
    今回の震災では地震だけでなく、津波や原発事故など甚大な被害がありまし
   た。私たちは今後更に、被災者の方々に対して激励の言葉や義援金をお送りし
   たり、産地品の購入、ボランティア活動への参加、避難者の受け入れなど、で
   きるだけの支援活動を続けていく必要があります。
    また、今夏のお盆を迎えて、寺院やご家庭において「盆会(ぼんえ)」とと
   もに、大震災で亡くなられた方々の「追悼法要」をお勤めしてはいかがでしょ
   うか。
 
  ◎『盂蘭盆経』に学ぶ
    石川啄木が故郷への想いを詠った、次のような詩があります。
   
     ふるさとの山に向いて言うことなし
     ふるさとの山はありがたきかな           (『一握の砂』)
   
    お盆になると、都会に住んでいる多くの人々が故郷へ里帰りし、日本民族の
   大移動が見られます。慌ただしい雑踏の都会から離れ、久しぶりに戻った故郷
   の山や川は、昔の懐かしい日々を思い出させてくれ、また一時の心の安らぎを
   与えてくれます。さらに親・兄弟姉妹・親族・友人との楽しい語らいがあり、
   お墓や納骨堂へのお参りを通して、亡き親や先祖を偲ぶ光景が見られます。
    盆は「盂蘭盆」の略で、その由来は『盂蘭盆経』によります。『盂蘭盆経』
   はインドの『目連救母説話』に中国人が重んじる孝養の徳目が付け加えられた
   ものです。6世紀中頃の僧侶である竺法護の訳と伝えられ、中国で撰述された
   ものといわれています。
    前半は、釈尊の教えに従い、自恣の日(修行者の自省する日)に衆僧に供養
   することによって、餓鬼道に堕ちて苦しんでいた亡母を救う話です。また後半
   は、自恣の衆僧に供養するならば、現世の父母や親族、また七世の眷族も、皆
   三途(地獄・餓鬼・畜生)の苦しみより救われるという内容になっています。
    また、「盂蘭盆」とは「烏藍婆拏(ullambana)」が訛ったもので、「倒懸(
   とうけん さかさづり)の苦しみ」と訳されます。さかさまにつり下げられま
   すと血が上がってしまい、とても苦しいものです。私たちの生き方にも、この
   「さかさづりの苦しみ」が見られます。
    自分の子供を、良い学校に入れ良い会社へ就職させたいと願う親の愛も、広
   い意味での餓鬼道なのです。親が子供に強く愛情をかけすぎると、かえって子
   供にとっては大きな負担となり、親の思いが逆に伝わります。受験戦争に拍車
   をかける「教育ママ」がその一例です。しかし、親は多くの犠牲、すなわち餓
   鬼道に堕ちるほど苦労して、子供を育てるのです。「目連とその母の話」を通
   して、今一度「教育」や「愛情」について考えてみる必要があります。
    私たちは、恵まれたこのかけがえのない尊い命を大切にして、世のため人の
   ために生きなければなりません。この私の命は自分だけの命ではなく、父母の
   命を通して多くの命に繋がっています。過去7代の父母は128人にものぼり
   ます。私が今日あるのは、多くの祖先がいたからであり、その点からも、祖先
   を敬うことは大切な習慣です。しかし、それ以上に大切なことは、そのことを
   通してこの私がいかに聞法し、ご信心の世界に生きる念仏者にさせていただく
   かということです。
  ◎仏法は聴聞にきはまる
    連如上人のお言葉を集めた『蓮如上人御一代記聞書』(193)に、
   
     いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、
     信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなり
                     (『註釈版聖典』1292頁)
   とあります。不信の人も仏法の聴聞を通して、阿弥陀仏の大慈悲のはたらきに
   より、信心を獲ることができるのであると述べられます。
    同じように、親鸞聖人は、その主著『教行信証』信巻に、第18願成就文を
   釈して、
   
     しかるに『経』(大経・下巻)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末
     を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、す
     なはち本願力回向の信心なり。      (『註釈版聖典』251頁)
   
   と述べられています。
    私たち衆生が、阿弥陀仏の本願を起こされた由来(仏願の生起)と、その本
   願を成就して(本)、現に私たちを救済しつつある(末)ことを聞いて信ずる
   (疑心あることなし)ことが聞である、すなわち「聞即信」と述べられます。
   またこの信心は、阿弥陀仏の本願力(他力)によって回向された信心(たまわ
   りたる信心)といわれます。
    本年から来年にかけて真宗各派で、親鸞聖人750回大遠忌法要が勤修され
   ています。50年に一度の大法要ですから、ぜひ上洛して本願寺に参拝されま
   すことをお勧めいたします。そして大震災の年のお盆を迎えるにあたって、人
   間界に生まれ、仏法を聞く機会を与えられた私たち念仏者は、『親鸞聖人御消
   息』にある、
 
     世の中安穏なれ、仏法ひろまれ      (『註釈版聖典』251頁)
   
   と願われた親鸞聖人の思いをいただき、共に力を合せて、自信教人の念仏生活
   をさせていただきましょう。