仏事いろいろ

◆春のお彼岸に寄せて 佐々木惠精〔本願寺出版社「お彼岸ー春ー〔2011年〕」より)

        
   ●お彼岸とその行事
    春のお彼岸となりますと、「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、いよ
   いよ春だ、暖かくなるぞ、という明るい気分になってまいります。日本では、
   欧米や中国などと比べても、新年を迎える正月や春を迎える立春などの節気、
   端午や七夕などの節句など、あるいは彼岸会やお盆などの宗教的年中行事が、
   とりわけ盛んなようです。これは四季がはっきりしていて季節の流れに節目を
   つけやすい、日本の気候の特徴が大きく関わっているのではないか、とも思わ
   れます。
    ところで、「彼岸」という言葉は何を意味しているのでしょう。それは仏教
   語として「彼方の岸」という意味で、迷いの世界である「此岸」(こちら側)
   に対して、苦悩の海を隔てたさとりの側「さとりの岸」を「彼岸」と呼んでい
   ます。
    もともと、迷いの世界のあらゆる生きとし生けるものを救おうと修行される
   菩薩たちの実践道が、「波羅蜜」(はらみつーパーラミター)と呼ばれます。
    それが「さとりを完成する」、すなわち「さとりの岸に到る」実践道で、「
   到彼岸」(とうひがん)とも訳されます。これを略して「彼岸」といわれるよ
   うになつたのです。したがって「彼岸」とは、本来は「さとりに到る(菩薩の)
   修行」といえます。
    その彼岸の法要「彼岸会」が春分、秋分を中心に前後七日間行われるように
   なったのは、さらに『観無量寿経』に、阿弥陀さまを深い瞑想の中で観じ取る
   「観想」が説かれ、その第一に「日想観」が説かれることによっているようで
   す。
    すなわち、阿弥陀さまを観想してそのはたらきに出遇い、「さとりに到ろう
   とするのに、まず私どもに受け止められるよう、さとりの世界を西方浄土と方
   位を示し、お浄土と阿弥陀仏のすがたを立てられた」(指方立相)、その阿弥
   陀仏と阿弥陀仏の世界を観想する道が説かれます。
    その第一が日想観です。そのお浄土を観ずるのに、西に沈みつつある赤々と
   照り輝く夕日を観ずる、眼を閉じてもありありと夕日が見られるように観想す
   る、そこに西方十万億の世界を超えたところのお浄土のすがたをいただくとい
   う訳です。そして、もっとも適切な「日想観」は、真東から日が昇り真西に沈
   むときとされ、春分、秋分の日が特別な「観想」のときとされます。
    これがお彼岸の日となり、その前後七日間にお彼岸の法要「彼岸会」が執り
   行われるようになったようです。西に沈みつつある夕日を拝してお浄土に、そ
   して阿弥陀さまに心を馳せる、ということで、例えば大阪の四天王寺では、古
   くからお彼岸に多くの参拝者が参詣し、夕日を拝されたと聞きます。

   ●追善のこころ
    お彼岸の法要は、アジアの仏教国などにも見られない日本独特の仏教行事で、
   聖徳太子の頃からなされていたと言われるほど、古くから仏教儀式となってい
   たようです。さらにそれは、今は亡き父母、祖父母らを追善供養する法要とし
   て親しまれてきました。日本人は主に農耕民族であり、先祖代々を大事にする
   宗教性を持っていることも、深く関わっているでしょう。
    しかし、浄土真宗を開かれた親鸞さまは、どうでしょうか。『歎異抄』にも
   表明されているように、自分中心の思いしか持てない愚かものに、自分の力で
   追善供養などできそうにないのであると、ご自分を厳しく見つめられました。
   その姿勢に、私たちは学ぶべきであろうと思います。
    親鸞さまは、『歎異抄』第五条に、
     親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ
     候はず               (『注釈版聖典』834頁)
   と示されています。すなわち、現代語版によりますと、
     親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、かつて一度もありま
     せん。(中略)この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、ど
     の人をもみな救わなければならないのです。念仏が自分の力で努める善で
     ありますなら、その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、念仏は
     そのようなものではありません。自力にとらわれた心を捨て、速やかに浄
     土に往生してさとりを開いたなら、迷いの世界にさまざまな生を受け、ど
     のような苦しみの中にあろうとも、自由自在で不可思議なはたらきにより、
     何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです
                  (『歎異抄(現代語版)』本願寺出版社)
    このように語られる親鸞さまのお心をいただくと、どうでしょうか。
    日想観のような瞑想を深めることなどとてもできない、自己中心的な存在で
   ある私どもは、西方浄土に心を馳せ、阿弥陀仏の大いなる働きに出遇わせてい
   ただき、「必ず救うぞ、われにまかせよ」と喚びかけてくださっているお心を
   いただく以外にない、ということになりましょう。

   ●報恩のこころ―大遠忌に向けて
    彼岸会にお参りするご縁は、今は亡きう有縁の方々を偲ぶこと ― 今ある
   私には、この方たちに大きな恩恵をいただいていると報謝しつつ。そして西方
   のお浄土、さとりの世界にこころを馳せ、この私の、死につつある存在であり
   ながらも、ここに命あることを深く受け止めさせていただく、その最良の縁と
   いえるでしょう。また、それが大事なことでしょう。
    今こうして、仏法に出遇い、親鸞さまのみ教えに出遇って、如来の大いなる
   はたらき、本願力にいだかれていることを深く受け止めさせていただく、ご恩
   報謝の場でありましょう。そうありたいものです。
    四月から親鸞聖人750回大遠忌法要が始まります。50年に一度のこのご
   勝縁も、他力回向のみ教えをお示しくださった親鸞さまのご恩に報謝し、こう
   してそのみ教えに出遇っていることをよろこばさせていただくことであります。
    お彼岸のご縁もまた、同じ心でお迎えし、大遠忌に向けて心新たにしたいも
   のです。